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加害-被害関係

プロジェクト趣旨

2期にわたる学術フロンティア研究事業において、「トラウマ」を主題とした研究活動を行ってきた。第1期においては、記憶と表象というトラウマ現象の核にある問題を幅広く学際的に論じること自体を目的とし、第2期においては、トラウマ現象における記憶の特殊な問題構造を、「埋葬と亡霊」という概念を用いて精神分析、臨床心理学、精神医学と、哲学、文学の人文科学が共有して論じる試みを行ってきた。 その過程で浮かび上がってきた事実は、トラウマが個人の内部で起こる、生理学的、心理学的過程であるだけでなく、暴力的作用を及ぼす主体と受ける主体の相互関係、すなわち加害と被害の関係の中で起こる現象としてとらえなければならないことであった。その構造は、犯罪、DV、児童虐待などのトラウマが問題となる主領域に共通する構造であり、そのもっとも大規模な現象はもちろん戦争、あるいは国際紛争である。 本研究は、トラウマを生み出す「加害‐被害」関係に焦点を当て、その現象の詳細の検証と、その関係を修復する方策の検討を目的とする。現在発生している「加害‐被害関係」を認識し、その関係を解消するという課題、加害者がいかに加害者であった(ある)のか、被害者がいかに被害者であった(ある)のかをそれぞれが自らの経験として認識する課題、内的な意味で加害者が加害者であることをやめ、被害者が被害者であることをやめる課題など、そこには重層的な複数の課題が含まれている。 本主題の具体的研究内容は、次の3つに分けられる。

(1)子どもと暴力

トラウマ的事象のうち、本研究では、子どもに加えられる暴力の実態とその影響、そして予防、危機介入、治療の方法論の観点から研究する。ここ15年間の児童虐待防止の進展の中で、虐待の通告、危機介入から、家族統合、治療と対策が進んできた。しかし、その過程で見えてきた課題も数多い。本研究ではそれらのうち「トラウマ治療の方法論」「児童虐待(施設内虐待を含む)」「加害者支援」という3点に問題を絞って研究を進める。被虐待児が多数暮らす児童養護施設におけるトラウマに焦点を当てた治療法、児童虐待防止の方法論、いじめを含む子ども間暴力における加害者への教育、支援、ぞれぞれの検討と実践を行っていく。具体的な治療法としては、プレイセラピー、箱庭療法、芸術療法、精神分析的心理療法、あるいは、認知行動療法における暴露療法、物語暴露療法(NET)などについて、プロジェクト4における実践とも連携しながら、理論的考察を加えていく。 また、虐待等暴力の被害はトラウマの観点から理解すべき影響とともに、特に子どもの場合には、人格形成の全体に影響することが知られている。子どもへの暴力は、養育者と子どもの間に形成される愛着を破壊する、あるいはその形成を阻むことによって、子どもの健康な発達を妨げる結果となる。こうした視点はプロジェクト2と重なるものであり、暴力の影響と愛着の形成の関係を相互に連携しながら検討していく。

(2)子ども時代の戦争体験の研究

子ども時代の戦争被害の影響の理解と、さらなる被害の防止は、今日の世界において危急の課題となっている。紛争地域における子どもの被害は、心身に深刻な影響を残し、将来の社会の疲弊、混乱を準備する。精神医学、臨床心理学では、その影響を最小限にとどめるためのコミュニティー支援の方法論、個人治療の方法論が検討されている。第2次世界大戦を経験した日本で、子ども時代の戦争体験の長期的影響を検討することで、現在のそれらの研究実践に寄与することができると共に、戦後の日本社会の一側面の検討も可能になる。 具体的には、戦争を経験した昭和7年生まれ~昭和20年生まれの方に質問し調査およびインタビュー調査を行う。調査の目的は戦争体験の実態と、それに由来するトラウマ性の影響を分析することにある。 本調査はミュンヘン大学を中心にドイツで実施中の「戦争の子どもKriegskind」の調査研究と連携して行う。基本的に同様の方法論をとりながら、社会国家主義の影響に重点の置かれるドイツとは異なった視点を取り入れ、特にトラウマに焦点を当てて調査する。 精神医学、臨床心理学の観点からの調査と並行して、地域の小学校の疎開経験を持つ同窓会の協力を得て、学童疎開に関する地域の記憶を記録する歴史的研究を進める。甲南大学が位置する神戸市東灘区およびその近隣の阪神間地域は、激しい空襲被害に見舞われた地域でもある。疎開経験と自宅および家族の空襲被害の実態はどうであったのか、その中で子どもたちは何を経験し、何を思ったのかを資料収集と聞き取り調査によって整理する。 歴史的観点からの記憶の整理と、臨床的観点からの記憶の整理は、有機的に連動し、トラウマ性の体験が明らかになることによって、事実としての被害の実態と性質が明らかになり、歴史的研究によって、個人の体験が地域の体験の中に位置づけられることを目指す。

(3)歴史的、哲学的観点から見た「加害-被害」関係―和解と「赦し」に焦点を当てて

近年の大規模な戦闘行為が古典的な戦争概念を無効化し、戦闘が国家間の紛争ではなくなってきた。そのことによって、加害者が同定できないままに「被害者」が広範に流出し、加害-被害の図式も維持するのが難しくなりつつある。その中で、「喪の労働」の新たな形態も模索されつつある。とりわけ、謝罪に基づく和解には収まらない「赦し」とは何であり、その可能性はどこにあるのかが問われなければならない。「子どもと暴力」「子ども時代の戦争体験」の研究と連動しながら、他の地域の現状を把握し、とりわけ植民地主義、ポスト植民地主義の動きを歴史的・思想的に分析することが不可欠である。 歴史学においても、加害-被害関係から、過去の植民地支配や戦争を見直そうとの動きが強まってきた。政治的にも、西欧諸国のかつての植民地政策における加害の実体を理解し、謝罪し、関係を修復する道が模索されている。本研究では特に、イギリス史、南アフリカ史を専攻する研究者によって、国家的和解の一事例として、イギリス‐南アフリカ関係を検討し、そこに見られる加害-被害構造から普遍的な問題を抽出する。さらに南アフリカにおける、ポスト・アパルトヘイトの和解の試みは、「喪の労働」と「赦し」について深刻かつ困難な問題を示している。その上で、本研究は、近年再浮上してきた新たな「正戦論」を思想的にどう捉えるのかを探り、今日「反戦」の概念に可能性はあるのかを問い直す。そして「来るべき民主主義」(ジャック・デリダ)を継承しつつ、グローバリゼーションの中での経済・環境・政治をめぐる不正義を問い質し、新たな国際的ネットワークの形成と民主化の道を探るという緊急の課題に、原理的・思想的に寄与することを目指す。