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芸術学と芸術療法

プロジェクト趣旨

芸術療法(アートセラピー)は心理学に関わる治療法の一分野としてすでに日本でも幅広く実施されている。そのなかには、絵画療法、コラージュ療法、箱庭療法といった、心理療法として長く使用されている技法もあれば、音楽療法、ダンス療法といったむしろ芸術実践から発展した技法や、園芸療法のように園芸学の発展型として実践されているものもある。これらは個別的技法としては理論的、技法的に整備され、その意義が実証的に検証されてきている。しかし他方で、「制作」が治療とどう関わるかが十分検討されることは少なく、芸術と治療に関する共通理解があるとはいえない。 本主題は、芸術学と心理療法両者の専門家を有する当研究所の体制を生かして、芸術一般を扱う芸術学の視点と治療を扱う心理療法の視点の協働によって、芸術療法の意味を探求しようとするものである。本研究の問題意識と方法は以下のとおりである。

いわゆるアートセラピーには、一般に、芸術作品の制作行為自体が治療的なものであるとする考え方(art as therapy)や、心理療法の一部としての制作過程においてセラピストとクライエントの関係性を重視する立場(art psychotherapy)がある。だが、いずれにせよセラピーでは、制作プロセスにおける内発的・表出的契機が重視されてきた。そこでは、結果として完成された作品自体に対する、いわゆる「芸術的価値」の序列(優劣)は問題にならない。また、「美術史」的知識にもとづく作者の意図的な創造や先達からの影響関係も重視されてこなかった。 一方、同じ「芸術」を扱いながら、いわゆる芸術学の領域では、すでに完成した作品を基点とすることが多く、とくに美術史学では、先行作品からの影響や、時代思潮あるいは社会制度等からの影響関係を読解しようとする傾向がある。作品解釈の際に、精神分析学や心理学からの概念の援用がなされることはあっても、臨床の現場で重視されるような視点はむしろ重視されない。 これまでアートセラピーと芸術学の間には真の対話が成立しないまま、それぞれが別領域として発展してきたのはこうした相違によるであろう。しかし、芸術学において、新しい方法論の模索が(例えば美術批評の領域において)徐々に進められ、アートセラピーにおいても新たな潮流が生まれつつある現在の状況を踏まえると、新たな対話・交流が両領域間に可能と思われる。そのため本研究では、臨床心理学(および心理療法)と芸術学のそれぞれにおける芸術へのアプローチについて、理論史と成立展開の経緯をまとめ、それぞれの立場の差異を確認しながら、両領域間の対話の可能性を探っていいきたい。

具体的には、まず両領域間の関係が歴史的にどのように形成されてきたのかを、文献研究によって把握する。臨床心理あるいは精神分析の領域における芸術へのアプローチは、日本では大正・昭和初期にすでに見られるが、この歴史的検証は未だ十分になされておらず、この時点を解明することによって今日的状況の考察につなげていく。また、日本の芸術療法の世界は、諸外国と比較すると未整理・未発達であるため、アメリカの状況を現場から学び知る機会を持った研究者によって、日米の歴史的展開を比較し、現状の批判的検証を行なう。 一方、美術の歴史の中では、芸術家が精神分析の様々な手法を表現に導入しはじめた顕著な例は、1920年代に始まるシュルレアリスムにあるが、彼らの援用の仕方を、本来の臨床現場での手法と詳細に比較検討した先行研究は見当たらない。芸術学と心理学の両分野の研究者の手による検証が必要な主題である。また、1960年代に登場した暗黒舞踏は、しばしばダンス・セラピーとの親近性が指摘されてきたものの、その本質の究明には至っていない。本研究会では、身体論の観点から芸術学と医療人類学とに携わる研究者によって、この点に新たな展開を見いだすことを目指す。

こうした歴史研究を進めて、両領域において、「芸術作品」や「芸術家」が、どのように位置づけされ、どのように扱われているか、その質的差異を検討するとともに、その成果を参照しながら、現在両領域の接点で生じている主題を扱っていく。一例として、なんらかの病理の発現として生み出された「作品」が、今日、一種の「アウトサイダー・アート」として美術館で収集・展示され、「美術鑑賞」の対象となっている。あるいは、セラピストに提出された有名芸術家の初期作品が、美術市場で競売にかけられ、現在は美術館がそれを収蔵・展示している例もある。こうした芸術をとりまく制度上の問題も、芸術学的観点と臨床的観点の両面からのアプローチが有効な主題である。 また、近年は芸術界において「アートセラピー」なる用語は一種の流行現象にさえなっており、芸術創造や芸術観賞に「癒し」を求める傾向が多々見られる。美術批評家としても芸術の現場に参与している研究者らの検討によって、その現状と問題点が浮き彫りにされるとともに、芸術療法の専門家の目から見た、その危うさへの警告もありうる。臨床の現場においてもまた、「アートセラピー」という用語は、昨今では様々なレベルで使用されており、「リラクゼーションだけを強調したものをアートセラピーと称したり、描画テストを絵画療法と称したり、○○法といった指示的/マニュアル的な技法をアートセラピーと同列に論じたりする混乱が続いている*」といった傾向が指摘されている。本研究会では、インタビュー調査によって、個々のアートセラピー実践家がセラピーと芸術とをいかに位置づけているのか、その現状・実態を調査していく。