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2016/03/06
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【リレーエッセイ047】「(カフェ)パンセ」(寺尾 建)

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明日2016年3月7日(月)、この4月に甲南大学経済学部の新入生となるみなさんを対象とする「入学前スクーリングⅡ」が行われます(「Ⅱ」となっているのは、昨年12月12日〔土〕に行われた「入学前スクーリングⅠ」に続く第2回だからです)。

 

いまから、この4月からの4年間をともに過ごすみなさんの顔を見るのが楽しみです。

 

さて、「入学前スクーリングⅡ」(ちなみに、3月21日〔月・祝〕には、「Ⅲ」が行われます)の会場となるのは、甲南大学5号館の1階にある「カフェパンセ」です。

 

「5号館」というのは、経済学部に在学中の(そして、卒業生の)みなさんが(また、私たち経済学部の教職員も)、「5号館」と聞けばすぐに、「ゼミのときに行く」と連想するような建物です。

 

5号館は、2001年にできました。今年でちょうど15歳になる建物です。

その1階にあるのが、「カフェパンセ」です。

 

その名の通りのカフェなのですが、甲南では、「カフェパンセ」とフルネームで呼ぶ人はおらず(私自身もそうですし、誰かが「カフェパンセ」と口にするところを目の当たりにしたことは、私自身は、これまでに一度もありません)、「パンセ」で通っています。

 

実は、誰が「パンセ」と名づけたのか、私は寡聞にして知らないのですが(このリレーエッセイの読者のなかに「知っていますよ」という方がおられましたら、ぜひとも教えていただければとてもうれしく思います)、「パンセ」というのは、「思考」「思想」「思索」「考察」などを意味する、pensée です。フランス語です。

 

フランス語といえば、いまから25年ほど前の話ですが、「エスポワールespoir」のような抽象名詞をお店の名前にするなんて、フランス人のセンスではありえない!と、知り合いのフランス人が(半ば嘆きつつ半ば怒りつつ)話していました(「エスポワール」は「希望」です)。ちなみに、その「エスポワール」は、レストラン。フランス語だから当然フレンチなのかと思いきや……メニューには、唐揚げや天津飯みたいなものもありました(笑)。
レストランを「エスポワール」と名づけた人は、そのレストランが人々に希望を与える、人々がそこで食事をすることによって希望を抱けるようになる──そのようなことを願ってそうしたのでしょうか。
同じように、「パンセ」と名づけた人は、人々がそこで思索に勤しむ時間を過ごすことによって、人々がいっそう思慮深く聡明になる──そのようなことを願ったのかもしれません。
ところで、甲南では「パンセ」といえばカフェですが、世界的には、「パンセ」といえば、パスカルでしょう。
ブレーズ・パスカル。17世紀フランスの哲学者・数学者・神学者。
天気予報のときに目にしたり耳にしたりする、圧力の国際単位である「ヘクトパスカル」の「パスカル」は、このパスカルです。
パスカルの死後、彼が残したノートやメモ類に書かれていたことを整理してまとめた遺稿集のタイトルが、『パンセ』です。
『パンセ』では、「人間は考える葦(あし)である」という言葉(意味するところは「人間は弱く、そして強い」)がもっとも有名ですが、今回は、「考える葦」と比べたらぜんぜん有名ではないものの、いまのことを考えるときにきわめて重要だと思われた言葉をいくつか『パンセ』から引用し、それに注釈を付け加えてみたいと思います。
「真理を愛さない人たちは、それに異論があるとか否定するものが多いとかいうことを口実にする。だから、彼らの誤りは彼らが真理または愛を好まないところからくるのであって、したがって、それは言い訳にはならない。」
それが正しいのかどうかを気にするのではなく、それが多くの人に支持されるのかどうかを気にする。そのような人には、リーダーの資格はないということでしょう。また、「正しいことをするのがリーダー」「物事を正しい方向へと修正するのがマネジャー」という区別をしたのは、ドラッカーだったでしょうか。いずれにしても、「多くの人に支持されるのかどうか」だけを気にするような人は、リーダーではないし、マネジャーでもありません。
「なぜ人は多数に従うのか。それは、多数がいっそう多くの道理をもっているからなのではなく、多数がいっそう多くの力をもっているからなのだ。」
「みんなが間違う」は、ありえます。実際、パスカルは、次のようにも言っています。
「反対があるということは、それが真理であるか否かを見分けるよい印ではない。多くの確かなことが反対されている。多くの嘘が、反対なしにまかり通っている。反対のあることが嘘の印でもなければ、反対のないことが真理の印でもない。」
ある人、あることが多くの人に支持されたという事実は、その人、そのことが「嘘」ではないということを意味するわけではない、ということです。歴史を振り返るまでもなく、言われてみれば、当然のことでしょうか。
「若すぎると正しい判断ができない。年を取りすぎても同様である。考えが足りない場合にも、考え過ぎる場合にも頑固になり、夢中になる。」
判断の際に頼ることのできる経験が豊富すぎる人は、「前例がない」の一言で却下しがちです。そのときが、新しいことを試してみるチャンスかもしれないのに、です。また、「いつも考えている」「ずっと考えている」が、ただの執着にすぎないこともありえます。
「私たちは、絶壁が見えないようにするため、何か目をさえぎるものを前方に置いた後で、安心して絶壁の方へ走っているのである。」
「何か目をさえぎるもの」とは、たとえば、「待ったなしの状況です!」「みなさんには危機意識が足りない!」「すぐに打てる手からということです!」「いまはまず動くことが大事です!」「拙速は巧遅に勝る、です!」といった威勢のいいフレーズだったりします。ところが、そのような煽りフレーズを好んで口にする人々が、実際に直面している事態の深刻さにもかかわらず、どこか機嫌が良さそうに見えることが少なくなく、また、ときに「ドヤ顔」さえ見せながらそのようなフレーズを口にする場面に何度も出くわすなかで、私はこれまで、「不思議」「謎」と思っていました。しかし、「目をさえぎるもの」が前方に置かれることで絶壁が見えなくなったためにそれらの人々が安心しているからなのだと考えれば、おおいに納得です。
『パンセ』のおかげで、積年の疑問が解決されて、スッキリしました。
このリレーエッセイを書くときに参照した『パンセ』は、去年の暮れ、担当する授業が終わって一服しようと立ち寄った「カフェパンセ」で売っているのを見つけて、購入したものです。「パンセ」と名づけた人に、そして、この春から甲南生となるみなさんに、このリレーエッセイが届くこととを願いつつ、筆を置きます。
                                                    [文責]寺尾  建(経済学部教授)
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