複数の視点で過去を考え、現代の常識をアップデートする。文学部 英語英米文学科 井野瀬 久美惠 (大英帝国史)

大英帝国史の専門家で、ジェンダー視点で歴史を分析し、多種多様な価値観で現代を見る井野瀬久美惠教授にお話しを伺いました。

About Me ( INOSE Kumie )

文学部英語英米文学科でイギリスの歴史と文化を担当しています。
とりわけ、島国であるイギリスが7つの海、5つの大陸に領土を広げ、「大英帝国(ブリティッシュ・エンパイア)」と呼ばれた時代が研究・教育双方の中心です。
学生たちには、講義を通じて、過去に起こった出来事そのものよりも、なぜそれがそのときに起きたのか、その出来事はその後どのように記憶されたかを意識するように伝えています。そのなかで、過去の出来事が自分たちの生きる今とどうつながっているかを考え、今を見る目を鍛えてほしいと思うのです。

Research

Truth About the Slave Trade

現代と過去とのつながりを意識しやすいテーマとして、奴隷貿易というテーマを考えてみましょう。16世紀から19世紀を通じて大西洋上で展開された奴隷貿易は、2020年のブラック・ライヴズ・マター(BLM、黒人の命は大切だ)運動でも、現代のレイシズムとの関わりで批判され、注目を集めました。

実は21世紀の今、300年以上にわたる奴隷貿易の記録の多くがデータベース化され、そのすべてが公開されていて、誰でも見ることができるのです。

データからは、アフリカ大陸から南北アメリカ大陸に送られた奴隷の男女比は7:3で、圧倒的に男性奴隷が多かったことがわかります。奴隷を必要としたカリブ海域や南北アメリカのプランテーション(農園)の所有者、すなわちヨーロッパやアメリカの白人男性たちが、農園の仕事を男性労働と考えていたからです。

大西洋上の三角貿易 
出典:井野瀬久美惠『大英帝国という経験』講談社、2007年、143頁。

しかしながら、 当時の(そして現在の)アフリカでは、水汲みを含む家事や育児、そして農作業も、主たる労働は女性の仕事です。労働をめぐるジェンダー理解がヨーロッパや南北アメリカとアフリカでは違っていたのですね。大西洋上の奴隷貿易は、女性労働を手元に置いておきたいアフリカ男性と、男性労働を求める欧米男性との、いわば「共犯関係」の上に成立していたことになります。

奴隷貿易の廃止が真剣に議論された19世紀初頭、カリブ海域の農園主は奇妙な事実に直面して戸惑いを覚えます。奴隷人口が増えないのです。奴隷貿易が止まれば、奴隷の供給源は唯一、女性奴隷が生む子どもの数に依存します。ところが、アメリカ本土と比べて、カリブ海域の農園では女性奴隷の出生率が上がらないのです。なぜなのでしょうか。

それは、「奴隷の子どもは奴隷」という未来を悲観した母たちが、カリブ海域に自生する植物、黄胡蝶(オウコチョウ)の種子を使って堕胎していたからです。黄胡蝶については、植物学者のカール・フォン・リンネは解熱作用があるとは記していますが、中絶効果については沈黙していました。

観葉植物としてヨーロッパ人の間で人気のあった黄胡蝶は、子どもの未来を案じる奴隷女性にとって、奴隷制度に対するささやかな、それでいて確実な「抵抗」の手段であったわけです。何とも皮肉は話ですが、そうせざるを得なかった女性奴隷の悲しみも伝わってくる気がします。

歴史教科書はこれまでヨーロッパ中心、男性中心に書かれてきました。それでは見えないもの、ことがたくさんあります。そこに目を向けるにはどうすればいいか――このことを、私はいつも講義で大切にしています。見えないものを見るためには、絵画や音楽といった感性に訴える史料/資料もありますし、近年では、データや数字、DNA解析などの科学技術の進歩が力を貸してくれます。

過去は「過ぎ去る」と書きますが、けっして過ぎ去らず、新たな顔をわたしたちに見せつづけているのです。

KONAN’s Value

奴隷貿易の例からもわかるように、データを駆使してこれまで知らなかった事実に目を向けると、過去を考える視点が変わり、語られてこなかった「物語」が浮かび上がってきます。人間は「物語」を求める動物、なのですね。
それに何よりも、「過去との対話」は、今を見る目を鍛えてくれます。わたしたちの「常識」にひそむ偏見や思い込みに気づかせてくれて、わたしたちが考えるものとは違
う見方や考え方があることを教えてくれます。
大事なことは疑問を持つこと、そして、抱いた疑問を口にする、言葉にすること。奴隷貿易の事例でいえば、「なぜ大西洋上では男性奴隷が女性奴隷の倍以上もいたのか」とか、「なぜカリブ海域の奴隷人口は増えなかったのか」「なぜ女性奴隷の出生率は伸びなかったのか」などになります。

こうした言語化こそ、甲南大学の講義の第一歩です。言語化さえできれば、互いに議論ができますし、議論のための資料やデータは私たちの周囲に豊富にあるのですから…!

Private

私は猫派で、現在は、19歳のキジトラの「はっじ」(メス)と15歳の黒猫の「マル」(オス)の2匹が私の癒しの源泉です(笑)。少し前に白猫の「航平」(オス)を18歳で亡くして以来、私はかなり落ち込んでいるのですが、私より落ち込みがきついのが、航平に育てられたマルです。航平といっしょに寝ていた場所からほとんど動こうとしないのです。運動量不足で体はぼてぼて、ぜい肉が目立ってきました。
動物は人間と違って感情や共感力はないと言われますが、どうもそうではないようです。猫にも悲しみの感情や「共感力」は猫にもあるのではないでしょうか。
大事なことはみーんな猫に教わった――谷川俊太郎さんの訳で知られる有名な本のタイトルが浮かびます。

はっじ(左)とマル(右)

Profile

文学部 英語英米文学科 教授

井野瀬 久美惠

INOSE Kumie