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神戸新聞2014年8月26日掲載広告

ひょうご歴史紀行 1

 今、宝塚大劇場がある一帯にかつて大規模なスポーツ施設があった。1922(大正11)年に誕生した宝塚大運動場である。野球場とテニスコート、小運動場を擁し、その総面積は約3万3,000平方㍍。関西の主要な運動施設として、野球はもちろん蹴球や相撲、テニスなどの大会に使用され、多くのスポーツファンに親しまれた。なかでも野球場は現在の阪神甲子園球場とほぼ同じ面積を誇り、その後、プロ野球創生のさきがけとなった「宝塚運動協会」や後に阪急ブレーブスとなる「大阪阪急野球協会」の本拠地にもなった。
 「宝塚運動協会」は、日本最初のプロ野球チーム「日本運動協会」を引き継ぐかたちで、1924(大正13)年2月に設立された。これは「日本運動協会」が、関東大震災で活動休止を余儀なくされたためで、この「日本運動協会」に救いの手を差し伸べたのが、当時の阪神急行電鉄の社長であり、将来必ずプロ野球の時代が来ると確信していた「小林一三」である。改名され新たに活動をスタートさせた「宝塚運動協会」は、野球選手が職業人として認知されていない時代に、日本野球の発展と野球を通しての人格向上に努めることで、徐々に世間に認められていった。
プロ野球誕生前夜球史の空白をうめる 当時、この「宝塚運動協会」に魅せられファンとなった著名人がいた。歌舞伎役者の六代目尾上菊五郎だ。宝塚公演の際に、球場で練習している宝塚運動協会を見てすっかりファンになった彼は、関西にやってくるたび、試合観戦はもちろん、選手を食事に連れ出したり差し入れをするなど、かなりの熱の入れようであった。その野球好きたるや、自らの野球チームを作ってしまったほどである。だが、「宝塚運動協会」は、発足からわずか5年で解散となってしまう。時代がプロ野球を受け入れるにはまだ時期尚早であったことや、ライバル球団が解散してしまったことがその理由であった。しかし、「小林一三」はこの解散の教訓を活かし、1936(昭和11)年「大阪阪急野球協会」を発足させる。そして、ついに日本にもプロ野球リーグが発足し、プロ野球は国民的娯楽へと成長していくことになる。
 この野球場で熱戦を繰り広げたのは、プロ野球選手だけではない。1928(昭和3)年には、旧制甲南高等学校が、大阪府立浪速高等学校と野球の第1回定期戦を行っている。旧制甲南高等学校創立より3年後、1926(大正15)年創立の大阪府立浪速高等学校は、旧制甲南高等学校と同じ7年制ということもあり、対抗競技の好敵手となった。生徒からの強い要望もあり、定期戦はその後22年間にわたり開催されることになる。定期戦では、野球以外の競技も行われていたが、華々しい応援合戦が繰り広げられた野球は、生徒にとって最大の見ものであった。
 このような歴史の舞台となった宝塚大運動場だが、野球場も西宮球場の完成を受け取り壊しになるなど、時代の流れの中でその役目を終える。そして今度は「宝塚ファミリーランド」の一部として、大運動場から遊園地へと新たに姿を変える。その後「宝塚ファミリーランド」は、2003年までの92年間、人々を楽しませる存在となった。いまや「宝塚大運動場」の姿は、歴史の記録の中でしか存在せず、人々にもあまり知られていない。だが、そこにスポーツを通して人々が魅了された、興味深い歴史があることを知るとき、われわれは語り継ぐべき大事なものを感じることができないだろうか。

画像提供:甲南学園
参考文献:「阪急ブレーブス五十年史」
「プロ野球誕生前夜球史の空白をうめる」