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神戸新聞2014年9月9日掲載広告

ひょうご歴史紀行 2

  閑静な住宅地として知られる西宮市の「甲東園」。その名は、かつてこの地にあった広大な果樹園「甲東園」に由来する。1884(明治17)年、大阪の豪商であった芝川家は、大市山と呼ばれていた地所を購入する。広大な丘陵地帯であったが、花崗岩の風化した土地で農業に適さない痩地であったため、果樹より他に植栽に適するものがなかったことから、1896(明治29)年、二代目芝川又右衛門により、この地に果樹園が開かれる。この甲山の東に位置した果樹園「甲東園」こそ、現在の「甲東園」の由来とされる。ちなみに果樹園では、ブドウやモモ、洋ナシなどが栽培され、兵庫県に献上したこともあったという。
 1911(明治44)年、二代目芝川又右衛門は、果樹園内に隠居所として木造二階建て延べ266平方メートルの別荘「芝川邸」を創建する。設計したのは、関西近代建築界の父と呼ばれた武田五一である。武田は、京都府立図書館などを手掛け、兵庫県内でも、姫路市の円教寺摩尼殿や加東市の清水寺など社寺建築でその名を知られている。武田の設計により、傾斜の強いスペイン瓦の屋根と数寄屋の伝統を取り入れた独特のスタイルの「芝川邸」は、和洋折衷の名建築として評価を受けるとともに、後に阪神間モダニズムの貴重な遺産として扱われることになる。
 当時、甲東園地区は人家もまばらで、主要な交通網も発達していなかった。そこで芝川家は、阪神急行電鉄(現:阪急電鉄)に駅前の土地一万坪を無償で提供し、甲東園に駅の設置を依頼する。これを皮切りに、鉄道開発事業とともに、甲東園地区の住宅地経営が推し進められていくことになる。また、芝川家も「百又」という会社を創立、都市計画業者の指定を受けると甲東園の住宅地開発を開始する。この際、分譲された芝川家の敷地が、約十万坪というものであったことから、芝川家がいかに広大な土地を所有していたかが分かる。
 時代とともに「甲東園」が果樹園から住宅地へと姿を変えていくなか、「芝川邸」は変わることなくそこにあり、芝川家もそこに住み続け、地元住民からも愛され続けてきた。まさに「芝川邸」は、甲東園の地区形成の端緒をなし、変遷を見守ってきた建物と言えるだろう。その「芝川邸」を悲劇が襲う。1995(平成7)年の阪神・淡路大震災で被災・半壊となり、解体を余儀なくされる。現地保存も検討されたが断念され、愛知県犬山市の博物館明治村に寄贈される。そして解体から10年を経た2005(平成17)年、博物館明治村の開村40周年の記念事業として、所有者であった芝川家や「芝川邸」に関わった工務店、多くのボランティアなど有志の力により復元作業が開始され、2007(平成19)年9月に竣工を迎え、一般公開された。
 果樹園であった「甲東園」は、「文教地区」とも呼ばれる閑静な住宅地へと姿を変え、人々にとって憧れの「甲東園」へと変遷を遂げた。いまや「甲東園」の地で、果樹園であった名残を感じることはできないが、その歴史を見続けてきた生き証人こそ「芝川邸」であった。その「芝川邸」は、いま名古屋の地から甲東園の歴史を伝え続けるとともに、見る者に阪神間モダニズムの風格を漂わせている。

画像提供:千島土地株式会社

参考文献:「明治村建造物移築工事報告書第12集」
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