ひょうご歴史紀行
神戸新聞2014年10月21日掲載広告

ひょうご歴史紀行 5

 太平洋戦争終戦直前の1945(昭和20)年8月2日、淡路島沖の鳴門海峡で、宝塚海軍航空隊予科練習生ら約110人が乗った機帆船「住吉丸」が、米軍戦闘機に急襲され、82人が戦死した悲劇をご存じだろうか。
 宝塚海軍航空隊は、終戦の前年となる1944(昭和19)年、海軍航空隊の訓練施設として、宝塚歌劇大劇場を接収して発足した。そこでは約4000人の予科練習生が、飛行士を目指して訓練に励んでいた。ちなみに、2012(平成24)年に亡くなった映画監督の新藤兼人氏は、予科練習生の世話役として同隊に配属され、終戦を迎えている。後に自身のシナリオをもとに、弟子である山本保博氏が監督として完成させた、ドキュメンタリードラマ「陸(おか)に上った軍艦」の中で、新藤氏は自身の体験をもとに戦争の愚かさについて語っている。
 予科練習生らは、米軍の本土攻撃に対抗し、淡路島南部に高射砲や特攻の陣地を造る任務を受けていた。当時の明石海峡には多数の機雷が仕掛けられており、やむなく予科練習生らは岡山から高松に入り、四国を経由するルートで淡路島を目指していた。8月2日の午前、「住吉丸」は淡路島の阿那賀港を目指し、徳島県鳴門市の撫養港を出発したが、正午ごろ、鳴門海峡に差しかかったところで、米軍戦闘機の急襲を受ける。米軍戦闘機の機銃掃射は甲板を貫き、船倉ですし詰めとなっていた訓練生に到達したため、船倉はまさに生き地獄となった。やがて船は炎上し、ほとんどが10代であった予科練習生82人が亡くなった。阿那賀にある春日寺には、当時多くの負傷者が運ばれ遺体も収容されたことから、今も終戦記念日を前に毎年法要が続けられている。
 現在、戦場となった海を見下ろす岬には、戦没者82人の墓碑と慈母観音像が立つ。これは1965(昭和40)年、この悲劇を知った淡路出身で三洋電機の創業者・井植歳男氏をはじめとする有志により造られた公園墓地「桜ヶ丘」であり、翌々年には、彫刻家の富永直樹氏により制作された慈母観音像も建立された。1965(昭和40)年に造られた公園墓地「桜ヶ丘」
 命を落とした82人の若者は、戦後の繁栄を見ることなく、飛行士として空を舞うことさえできず海に散った。その無念を思う多くの人々が、今も「桜ヶ丘」を訪れ平和への祈りをささげている。

参考資料:「神戸新聞」