ひょうご歴史紀行
神戸新聞2014年11月5日掲載広告

ひょうご歴史紀行 6

 江戸末期、突然の黒船の来航で沿岸防備の必要に迫られた幕府は、各地に台場を築いた。神戸の和田岬に立つ「和田岬砲台」もその一つで、1864(元治元)年、幕府の軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)だった勝海舟の指揮により建築された。設計を佐藤与之助、工事を嘉納次郎作が請け負い、日本古来の技術を駆使し、2万5千両の費用をかけて1年3ヶ月という短期間で完成させた。西洋式の石造り、高さ約11メートル、直径約15メートルのこの砲台は、世界の軍事史上「マルテロ・タワー」と呼ばれる種類に属する堅強なもので、当時のまま現存しているのは全国唯一である。後に、その技術を知る貴重な文化財として、1921(大正10)年には、国指定史跡の兵庫県第1号となった。
 砲台は完成したものの、明治維新により幕府が崩壊したこともあって、大砲が据えられることはなかった。1897(明治30)年には、三菱合資会社(現:三菱重工業)に買収され、同社の所有となった。
 神戸大空襲や阪神・淡路大震災でも大きな被害こそなかったが、石造の外壁に欠損や亀裂が目立ち、内部の劣化も激しくなったことから、大正から昭和の初めに行われた大修理以来で80年ぶりとなる「平成の大修理」と銘打った 改修が決定。2009(平成21)年から開始されたこの大修理は、2014(平成26)年3月に終了したばかりで、砲台も建築から150年を迎えた。
 この和田岬は、海防の地からサッカーの聖地へと変容をとげた歴史もある。その舞台となるのが、1970(昭和45)年に市営競輪場跡地に誕生した 神戸市立中央球技場である。当時日本一と称賛された芝生や最新鋭のナイター設備を完備し、多くの国際試合も開催されたことから、サッカーの聖地と称された。しかし、1985(昭和60)年にユニバー記念競技場が完成すると、その地位を譲ることになる。
 その後、2002(平成14)年に開催される日韓共催W杯の神戸会場に決まったため、1998(平成10)年には、御崎公園球技場へと生まれ変わるための改修が決定。同年12月にはお別れのイベントとして、アメリカンフットボールの甲南大学と神戸大学との試合や、ヴィッセル神戸の選手も参加するサッカーの親善試合などが開催された。
 改修後は、その名称は公募により神戸ウイングスタジアムと変更された。 さらに現在では、ネーミングライツによりノエビアスタジアム神戸と命名され、ヴィッセル神戸のホームスタジアムとして、数々の名勝負の舞台となっている。西摂大観(明治44年)より転載
 現在「和田岬砲台」は、三菱重工業株式会社神戸造船所の敷地内にあり、見学することができますが、原則毎週木曜日のみで事前予約が必要です(無料)。
詳しくは同社ホームページをご覧ください。
http://www.mhi.co.jp/company/facilities/wadamisaki/

 

協力:三菱重工業株式会社神戸造船所
参考資料:神戸新聞