ひょうご歴史紀行
神戸新聞2014年11月18日掲載広告

ひょうご歴史紀行 7

 1909(明治42)年、現在の神戸市東灘区岡本の山麓に、壮大で華麗な異国風建築が現れた。浄土真宗本願寺派第22代門主、大谷光瑞(こうずい)師が建てた別荘「二楽荘」である。その名前には、「山を楽しみ、海を楽しむ」との意味が込められ、総面積は24万6000坪、土地代も含め、現在の金額にして約80億円をかけて建築された。象徴となる本館には、支那室、英国室、中国室、アラビア室、インド室、エジプト室など、世界の国々をイメージした部屋があり、建築様式や調度類で各国の雰囲気を演出していた。さらに、荘内には園芸試験場や気象観測所のほか、ケーブルカーも存在していた。わが国初とも言われるこのケーブルカーは、3本の路線で山麓から二楽荘本館へと繋がっていた。竣工時、この地を訪れた建築家・伊東忠太氏は、二楽荘を「本邦無二の珍建築」と評している。また、大谷師は仏教の伝播を調査するため大谷探検隊を組織し、シルクロード研究で大きな業績を残しているが、探検隊によりもたらされた文物は、この二楽荘に集められ、研究だけでなく一般に公開された。
 しかしその後、教団事業の負債の増大が原因で、二楽荘は1914(大正3)年に閉鎖となり、大谷師と旧知の久原房之助(くはら ふさのすけ)氏へ売却される。久原氏は、第1次世界大戦で巨万の富を築いた財界の傑物であり、日立鉱山を買収して久原鉱業を作り、事業を拡大していた。一方で、教育事業にも理解を示しており、甲南学園創立者の平生釟三郎(ひらお はちさぶろう)氏へ協力を申し出ていた。甲南中学校の設立計画が持ち上がると、創立委員であった久原氏は、甲南に二楽荘を活用してほしいとの意思を示し、7年制甲南高等学校創立後の1925(大正14)年には二楽荘の永代使用権を甲南に譲渡したいと平生釟三郎に申し出ていた。しかし、それが実現しないまま、昭和に入り不審火によって建物が焼失してしまう。建築からわずか23年後のことだった。
 二楽荘が甲南の学び舎になることは叶わなかったが、甲南中学校の設立計画は進められ、本格的な校舎が完成するまで、ひとまず仮校舎が作られることになる。その際にも久原氏の好意により、旧武庫中学校の校舎を解体して、その古材が利用されることになった。武庫中学校とは、二楽荘の中腹に、西本願寺末寺の子弟のために大谷師が建てたものだが、その後廃校となり、二楽荘とともに久原氏が譲り受けていた。1919(大正8)年、甲南中学校は開校を迎え、第1回入学式は旧武庫中学校の講堂で行われた。
 かつて、ほとんど民家も見当たらない田園地帯であった岡本の地も、いまでは住宅やマンションが建ち並び、甲南大学もキャンパスを構えている。もし二楽荘が焼失することなく残っていたならば、われわれが見る岡本の風景は、また違ったものになっていたかもしれない。甲南生にとって思い出多い「二楽荘」(提供:甲南学園)

参考文献:「甲南学園50年史」
「甲南学園byAERA」
「平生釟三郎日記 第七巻」