ひょうご歴史紀行
神戸新聞2014年12月 2日掲載広告

ひょうご歴史紀行 8

 結婚式や祝賀会など、日本の慶事での鏡開きに欠かせない菰樽(こもだる)。その歴史は、江戸時代にさかのぼる。当事、酒樽は馬の背にのせ運ばれていたが、やがて海上輸送が主流となる。菱垣廻船、樽廻船が登場し、樽も二斗樽から大きな四斗樽へと変わった。海上輸送の際に樽が壊れないよう、藁(わら)でできた菰を巻き付けたことが菰樽の始まりで、菰冠り(こもかぶり)と称された。また、菰には他の銘柄との区別のため、商標の焼き付けなどが行われるようになる。これを印菰(しるしこも)といい、酒造会社によりデザインも異なるため、見る者にとっては味わい深いものとなっている。
 伊丹や灘といった酒どころに囲まれていた尼崎では、かつては農家の冬場の仕事として、菰樽に使われる菰縄作りが盛んに行われていた。しかし、ここ数十年の清酒需要の低迷による需要減で、菰縄製造業者は減り、いまや日本でたった3軒となった。そのうち2軒が残る尼崎では、いまも菰樽作りが伝統産業として受け継がれ、全国の約8割を生産している。その1軒が、塚口にある明治30年代創業の岸本吉二商店である。昭和3~40年代の高度成長期になると尼崎の田んぼが減少し、菰の材料となる藁の確保が厳しくなったが、同店では、藁を求めて神戸市北区や三木市吉川町にも生産拠点を移し、伝統を守り続けてきた。ちなみに材料となる藁も、稲の種類により菰縄づくりに向き、不向きがあり、背の高い山田錦のものが良いとされる。さらに最近では、藁の代わりに合成樹脂製のものを使うこともあるという。
 同店では伝統を守る一方、デザインに趣向を凝らしたり、クラッカーが飛び出る菰樽なども開発。さらには、菰樽を使ったインテリア家具に挑戦するなど、菰樽の活躍の場を広げようとしている。師走に入り菰縄作りはにわかに忙しくなるさまざまな取り組みが認められ、これまで国内外のコンテストで受賞も経験、海外での展示会も実施された。最近では、日本企業が海外で鏡開きをすることが増え、海外からの観光客に小さい菰樽がお土産としてもてはやされるなど、菰樽は日本文化の一つとして注目されている。社長の岸本氏は、「菰樽を作る会社も減り、当社はまさに絶滅危惧種のようなものかもしれない。だが、今でも菰樽を使いたいと言っていただけることがある限り、この文化を守っていきたい」と熱く語る。
 師走に入り、製造のピークを迎えた同店では、荷師(にし)と呼ばれる職人の作業にも熱が入る。作業の機械化が進んでも、いまも菰巻きは手作業で行われる。熟練した職人になると、1個の樽を約10分で仕上げるという。こつこつと作られてきた菰縄をまとった樽酒は、伝統を守り続ける尼崎の地から、全国各地、そして海外へと旅立っていく。

師走に入り菰縄作りはにわかに忙しくなる
           菰樽ができるまで(資料提供:株式会社岸本吉二商店)

協力:株式会社岸本吉二商店