ひょうご歴史紀行
神戸新聞2014年12月16日掲載広告

ひょうご歴史紀行 9

 あの時から、まもなく20年になろうとしている。1995(平成7)年1月17日に起こった阪神・淡路大震災。淡路島を震源とした直下型地震は、6000人を超える犠牲者を出し、住家をはじめ甚大な被害をもたらした。とくに被害が大きかった神戸市東灘区にある甲南大学も、未曾有の揺れの前には無力だった。大学では16人の学生が命を落とし、甲南学園全体でも同窓生らを含め37人の犠牲者が出た。
 キャンパスでは、旧制甲南高等学校時代から人々に「白亜城」と親しまれた1号館をはじめ、多くの校舎が使用不可能な状態となった。震災発生後のグラウンドにはプレハブの仮設教室が建設され、講義だけでなく、入学試験もそこで実施された。「大学再建への道は、まさに綱渡りの連続だった」。当時、学長補佐として大学再建の中心的な役割を果たした藤本建夫・経済学部教授は、こう振り返る。だが1997年には、卒業生をはじめ多くの方々からの多大な支援により、校舎は約2年という驚異的な速さで再建を果たすことになる。
 また、大学は震災直後から避難所として開放され、多い時には1000人を超える避難者が学内に集まった。学園関係者が学校再建等の対応に追われる中、避難所で大きな役割を果たしていたのが、学生たちだった。彼らのボランティア活動の場は、学内だけにとどまらず地域等にも広がっていき、活動を行う学生の人数も、全学生の半数にあたる約4500人にも上った。自主的に活動を行う多くの学生を見て、藤本教授も頼もしさを感じたという。
 震災により人々が悲しみに包まれる中、藤本教授は、この震災を記録として残すことを決心する。大学関係者が残していた記録や学生たちの体験談は一冊の本としてまとめられ、1996年に「甲南大学の阪神大震災」として刊行された。さらにその翌年には、甲南学園も震災の記録集として「学園が震えた日」を発行している。これらの記録に目を通すと、大学や高等学校・中学校での当時の被害状況を詳細に知ることができる。同時に、いかにあの震災が人々に大きな悲しみや苦しみを与えたか、あらためて追想させられる。藤本教授は、このほかにも専門分野の経済学の視点から震災を分析した書物も出している。
 震災発生から20年が経ち、神戸の街でも震災の爪跡はほとんど見られなくなっている。しかし、復興への道のりや結果については課題ばかりが見えると藤本教授は指摘する。これからの大学は、文化の中心としてだけでなく、防災の拠点になることも求められる。キャンパスには、震災を知らない世代の学生たちばかり。震災をしっかり語り継ぐことの必要性を感じながらも、実際に震災を体験していない学生にどう伝えていくべきかという難しさも感じている、と藤本教授は言う。
 1号館の前には、備えることの大切さや助け合うことの尊さを忘れないため、1997年に記念碑が建てられた。そこには、甲南学園創立者の平生釟三郎が災害に警鐘を鳴らした、「常ニ備ヘヨ」との言葉が刻まれている。また、震災犠牲者慰霊碑も大学構内に建てられ、毎年1月17日には多くの献花が手向けられ、今もなお被災者の鎮魂を祈り続けている。

仮設教室で実施された入学試験

仮設教室で実施された入学試験

協力:甲南大学経済学部教授・藤本建夫
参考文献:「甲南大学の阪神大震災」「甲南学園byAERA」