ひょうご歴史紀行
神戸新聞 2015年2月10日掲載広告

ひょうご歴史紀行 10

 今から80年前の1935(昭和10)年、ブラジルへ向かう経済使節団の中に、かばん持ちとして海を渡った青年がいた。阪急グループの創業者である小林一三(こばやしいちぞう)氏の三男で、後に阪急電鉄社長などを務めた小林米三(こばやしよねぞう)氏である。
 若き米三が海を渡るきっかけとして、甲南学園創立者 平生釟三郎(ひらおはちさぶろう)氏の存在があった。高校卒業後、大学へは進学せず早く社会に出ることを望む米三に困った一三は、同じ財界で活躍する実業家で、教育家としても知られた平生に説得を依頼。平生は見事に米三の大学進学への意欲を引き出させた。さらに一三は、平生を団長とする経済使節団のブラジル訪問を聞きつけると、かばん持ちとして同行させてもらえるよう依頼をする。一三の依頼を平生も快く引き受けたため、米三は勤務先を休職し、晴れて海外の世界を見ることを許されたのである。
 ちなみに、この訪問の記録として、1936(昭和11)年に発行された「伯國*経済事情」には、団長の平生をはじめとする各使節とともに、「団長秘書」として小林米三の名前が記載されており、海外の異なる文化の中での仕事ぶりが評価されて、現地で送別慰労会が開かれたとある。また、一三が寄稿した「平生釟三郎追憶記」では、米三の海外での思い出が紹介されており、話の上手な平生のもとには多くの人が集い、行く先々で夜遅くまで話の花が咲いたことや、かばん持ちだった米三が平生の許しを得て、パーティーで代表としてダンスを踊ったエピソードなどが披露されている。
 さらに、二人の交流は続き、帰国翌年に米三の結婚が決まった際に、一三は当時文部大臣だった平生にお願いをして、媒酌人も務めてもらっている。一三は平生を恩人と称し、若者を引きつける力を持つ人格者として尊敬の念も示している。 その後、1938(昭和13)年に米三は、宝塚少女歌劇(現:宝塚歌劇団)の日独伊親善芸術使節団に団長として参加、欧州の地での公演には困難も多かったようだが、平生に同行してブラジルを訪問した経験を活かし、最初の海外公演を成功させ帰国を果たす。米三は、この海外公演にもブラジル訪問と同じかばんを用いていた。
 米三が愛用したかばんには、訪問国の数を誇るかのようにステッカーが貼られ、今は小林一三記念館で静かに展示されている。その一枚一枚のラベルに目をやれば、期待を胸に世界の国々を目指して海を渡った、米三の姿が目に浮かぶようである。

※伯國=ブラジル

 小林米三氏が用いた旅行かばん(所蔵:小林一三記念館)

小林米三氏が用いた旅行かばん(所蔵:小林一三記念館)


 小林一三記念館では、「第13回特集展示 宝塚歌劇100周年記念 旅するTAKARAZUKA ―小林一三海外公演の夢―」を2015年3月29日(日)まで開催しています。今回取り上げた小林米三氏の「かばん」をはじめ、戦前期の宝塚歌劇の旅公演での写真など、貴重な資料をぜひ一度ご覧ください。詳しくはこちらをご覧ください。
<お問い合わせ>TEL:072-751-3865
<ホームページ>http://www.hankyu-bunka.or.jp/sys/info/article/114

協力:公益財団法人阪急文化財団
参考書籍:「平生釟三郎追憶記」「小林米三氏の追想」「伯國経済事情」