ひょうご歴史紀行
神戸新聞 2015年2月24日掲載広告

ひょうご歴史紀行 11

 芦屋には、今も阪神間モダニズムの香りが残る。大正初期に迎賓館として建てられた洋館「ギャラリー開雄(かいゆう)」もその一つだ。スパニッシュスタイルの木造2階建てで、「赤い屋根のステンドグラスの家」として親しまれた。戦前には観菊(かんぎく)会の会場や洋裁の稽古場として使用され、谷崎潤一郎が稽古後の松子夫人を迎えに来ていたという逸話も残る。戦後は住宅として使用され、20年前の阪神・淡路大震災でも大きな被害はなかったが、近年は無人となっていた。そのため維持費の面から解体も検討されたが、所有者の強い愛着と活用のアイデアにより、今でもギャラリーとして愛され続けている。
芦屋市平田町にある「ギャラリー開雄」  今も洋館が残り、甲南高等学校・中学校も校舎を構える芦屋の街は、さまざまな芸術家を育てた。音楽家・貴志康一(きしこういち)と画家・長谷川三郎は、ゆかりのある芸術家として知られている。貴志は、9歳から欧州への留学を決意する17歳まで芦屋に住み、甲南小学校や甲南高等学校尋常科(中学校)・高等科で学びながら、バイオリンに情熱を傾けるようになる。留学後、日本とドイツを行き来する中でその才能が認められ、作曲や指揮者だけでなく映画製作でも活躍した。しかし、多忙な生活が体を蝕み、28歳という若さでその生涯を閉じた。
 日本の前衛美術の草分けとして知られた長谷川は、父親の転勤で芦屋に転居すると甲南小学校に転入。その後、旧制甲南高等学校を卒業している。姉から譲られた道具で油絵を描き始めると、徐々に才能を開花させ展覧会で入選も果たすようになった。大学卒業後、海外を旅するうちに画家として生きることを決意する。その後、高い評価を受けていたアメリカに移住し、日本文化の紹介に尽力するが、がんに侵され、50歳にしてサンフランシスコで永眠した。
 二人の没後、歴史に埋もれていた才能と功績は、多くの人々の手により再び光が当てられることになる。母校である甲南高等学校・中学校には、自筆の楽譜や愛聴したレコードなどを展示した「貴志康一記念室」と、約80点の作品が展示される「長谷川三郎記念ギャラリー」が設置され、貴重な資料がいまも大切に保存されている。ちなみに同校の講堂には、フランスを中心に活躍した画家・菅井汲がデザインし、「フェスティバル・ド・コウナン」と名付けられた緞帳も存在する。
 阪神・淡路大震災を乗り越えたこの街の文化財の数々には、その輝きとともに守り伝える人々の強い思いが込められている。

協力:ギャラリー開雄
参考文献:「神戸新聞」「AERAby甲南学園」