ひょうご歴史紀行
神戸新聞 2015年2015年3月3日掲載広告

ひょうご歴史紀行 12

 桃の節句には、女児の健やかな成長を願ってひな人形が飾られる。このひなまつりも、もともとは女児に限ったものではなく、邪気が入りやすいとされたこの季節に、穢(けが)れを祓うものとして行われていた。
 日本では、古くから自分の穢れを紙で作ったひな人形に移し、川に流すことで厄を祓ってきた歴史がある。この流し雛は、いまも全国にその伝統を残す地域があるが、たつの市龍野町では「龍野ひな流し」が行われている。伝統行事として続いており、江戸末期に一度は途切れたものの、地域住民らの手で復活した。
 やがて、人形作りの技術が発展すると、ひな人形は流すものから飾るものへと移り変わる。初期には男女一対のひな人形を飾るだけだったが、やがて金屏風の前に人形を並べる立派なものになる。ひなまつりも、民家や施設の軒先に人形を飾ったり、ひな人形のかかしが作られるなど、地域によって個性のあるものが見られるようになった。
 そのような中、ひなまつりが行われる時季に特徴のあるものがある。たつの市御津町室津地区の「八朔(はっさく)のひなまつり」は、旧暦の8月に行われることで有名だ。ちなみに八朔とは、八月朔日の略であり旧暦の8月1日のことを指す。この頃に早稲の穂が実るため、農民の間で初穂を恩人などに送る風習があったことから、田の実の節句とも言われている。
 なぜ他のひなまつりと異なる時季になったのか。江戸時代に記された「室津追考記」によると、1566(永禄9)年1月に、室津の室山城が龍野城主・赤松政秀に急襲され、浦上清宗と縁組みしたばかりの花嫁が非業の死を遂げたことを悼み、地元の民がひな祭りを半年延期したことが始まりとされている。地元では、亡くなった花嫁というのが、黒田官兵衛の妹だったとの伝承が残る。戦後はいったん途絶えていたが、地元の住民らでつくる「室津を活かす会」が復活をさせ、いまでは真夏の港町で観光客を楽しませている。
 地方によってひなまつりのかたちや時季は違っても、ひな人形に向ける人々の想いや眼差しはみな温かくやわらかい。

  八朔のひなまつりでの展示(提供:たつの市立室津海駅館)

八朔のひなまつりでの展示(提供:たつの市立室津海駅館)


協力:たつの市立室津海駅館
参考資料:「神戸新聞」