ひょうご歴史紀行
神戸新聞 2015年3月17日掲載広告

ひょうご歴史紀行 13

 日本とブラジルが日伯修好通商航海条約を結び、外交関係を樹立してから今年で120年を迎える。1908(明治41)年4月28日、移住第一陣の781人を乗せた「笠戸丸」が神戸港からブラジルへと出港して以来、多くの日本人が志を持って新天地へと渡った。戦争での中断があったものの、その数は1973(昭和48)年までに約25万人となり、ほとんどの人が神戸から出港したという。この移民事業の歴史については、様々な研究も進み、多くの人の知るところとなった一方で、それを支えた実業家の存在はあまり知られていない。
 甲南学園創立者の平生釟三郎(ひらお はちさぶろう)は、早くから同国に着目し、移民事業の必要性を説いていた一人だ。当時の日本は、近代・産業化が一段落し、急増する人口や資源獲得への対策が課題とされていた。かねてからブラジルにこの問題解決の糸口があると考えていた平生は、東京海上保険株式会社の専務時代、世界旅行の途中で自身の考え方の確認のために、初めてブラジルを訪問する。現地で確信を得た平生は、政財界をはじめ、さまざまな方面に持論を発信するとともに、自身も現地の土地を購入して自営育成を目指した。そして平生が、国策会社の海外移住組合連合会の二代目会長や日伯中央協会の創立理事になると、実際に政策増進に取り組んだことで、移民政策は大きな発展を遂げることになる。
 しかし、ブラジル国内では排日運動が高まりを見せるなど、やがて両国の間の関係性に変化が生じるようになる。そこで広田外相から要請を受けた平生は両国の関係改善のため、1935(昭和10)年に経済使節団長として2度目の現地訪問をする。三井、三菱、東洋紡といった会社の要人とともにブラジルを訪問した平生は、自身が信条とする「ギブアンドテイク」に従い、大統領や州知事との面会をはじめ、積極的な交流を実践する。この使節団の働きにより、貿易では日本とブラジル双方の輸出量が増加するという成果が得られたわけだが、なにより日本からの移民により綿花が生産され、日本主導で輸出が行われるという、日本にとって理想の形が実現されたことが大きかった。
 その後平生は、ブラジル側から使節団が訪日した際にも、国賓待遇として受け入れることを政府に確約させ、最高の環境での視察を実現させている。時を同じくして、ブラジル国内では、マスコミにより連日のように日本が紹介されたことから、日本への関心も急激な高まりを見せる。結果として両国の関係はさらに深まり、平生の訪問は貿易拡大だけでなく国家レベルの友好親善活動へと発展したのである。
 いまや経済をはじめとした多くの分野で、グローバル化は当然のことと考えられるようになった。日本も、今後さらに世界各国と関係を深めることが求められる一方で、さまざまな課題も存在することから、時に緊迫した局面を迎えることもあるだろう。これから日本は世界とどのように向き合っていくべきか。時代こそ違うものの、平生が実践したブラジルとの交流には、その答えを導き出すヒントがある。

  経済使節団訪問時の記念式典(提供:甲南学園)

経済使節団訪問時の記念式典(提供:甲南学園)


参考文献:神戸新聞
参考資料:「神戸新聞」

※「ひょうご歴史紀行」は今回が最終回となります。これまでご覧いただき、誠にありがとうございまし
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