研究概要

*研究目的

本研究は、芸能に焦点を当てることで(1)インド社会の2000 年以降の構造・価値観の変化の把握、(2)西洋発の文化が世界中に拡大するという従来のグローバリゼーション・モデルとは異なる、文化の環流現象のモデル化を目指す。環流現象とは、国境を越える過程で変化し、様々な地域への拡大と自社会への回帰を見せる、近年のグローバルなインド文化の動態である。本研究課題では、演劇、舞踊、音楽という芸能が衛星放送、携帯電話、インターネット等からなる新しいメディア状況と結びついて世界各地に広がるとともに、インドに回帰することで生じるインド社会への影響を明らかにしようとする。

*研究の背景

タミルナードゥ州のティヤーガラージャ・アーラーダナーにて

2000 年以降に急速に進展したグローバル化は、インド社会に様々な変化をもたらし、同時に、インドの芸能にも大きな変容をもたらした。芸能とは、演者・聴衆双方の喜怒哀楽を表現するものであると同時に、その時々の人々の欲望を一定程度反映する点で、時代や世相を映し出す鏡である。インドの芸能は今や国境を越え、様々な地域に広がり、新たな展開を見せている。

イギリス在住南アジア系移民の音楽実践を扱うG.Farrel(2005)の研究は、そうした先行研究の一例である。しかしながら、これらの研究は欧米の移民社会、つまりインド外での芸能の変化に注目する傾向にあり、欧米の移民社会の枠を越えた流れをみせている近年のグローバルなインド芸能の拡大は見過ごされている。こうした状況は、インドのグローバル化で指摘される「文化の環流」現象をめぐる研究と接続することでより正確に分析することができる。三尾(2011)によれば、環流とは、主にインド系移民によって伝えられたインド起源の宗教・映画・ファッションなどが欧米の消費者に受容され、現地の文化と相互作用を起こして変化しながら再びインドに戻る文化の周回現象のことを指す。環流は、西洋起源の市場経済の拡大や合理化の進展がグローバリゼーションの特徴であるとする観点や、グローバルな価値観がローカルな社会に一元的に影響を与えるといった二項対立的な見方では捉えられない現象である。環流という見方により、非西洋の地域を起源とし、人・モノ・カネ・情報の重層的な流れとともに生起する文化の動態を捉えることができる一方で、文化の環流現象を引き起こす要因や、環流が起きる中で生成するナショナリズム等の価値観の衝突をめぐる先行研究の蓄積はまだ少ない。

バンクーバーのキールタン・イベントの様子

この状況を鑑み、本研究課題は、演劇、舞踊、音楽という芸能が衛星放送、携帯電話、インターネット等からなる新しいメディア状況と結びついて世界各地に広がるとともに、インドに回帰することで生じるインド社会への影響を明らかにする。インドの芸能は、メディアと接合し、インド系移民社会の枠を越えて流通すると同時に、インド社会の社会関係や価値観を反映するものであるため、環流の研究を更に進める研究対象として適していると考えられる。メディアとの接合により、芸能が従来の社会関係を越えてインド国内外で普及すると同時に、宗教・カースト・言語などにもとづく集団意識の強化という現象が生起している点にも留意する。

Farrell, G. with Bhowmick, J. and Welch, G. 2005, “South Asian Music in Britain”. In H. Um (ed.) Diasporas and Interculturalism in Asian Performing Arts: Translating Tradition. pp.104-128, RoutledgeCurzon.

三尾稔 2011「『環流』する『インド文化』ーグローバル化する地域文化への視点」『民博通信』132: 2-7。

*具体的テーマ

以下4つの具体的テーマを設定し、フィールドワークによるデータ収集を行った後に文化の環流の理論的枠組みを提示する。

  1. インドにおける新たなメディア状況の展開
    衛星放送、携帯電話、インターネットなど、1990年以降にインド社会に広がった新たなメディア状況が、インド各地域でどのように展開しているのかを明らかにする。

  2. 新たなメディアとの結びつきにより生じた芸能の流通と形式の変化
    CD、DVDによる芸能の複製化にはじまり、2000年代以降はインターネット(たとえば動画投稿サイトYouTube)やSNSの普及により、芸能がポピュラー・カルチャー化し、広く流通するようになった。芸能における宗教性の変容など、従来とは異なる形で芸能が広く消費される過程で、なぜ特定の芸能がグローバル化し流通するのかを明らかにする。

  3. 芸能のグローバル化を支える社会関係とネットワーク
    元々は限定的な社会関係の中で演じられてきた芸能が、既存の社会関係を越える形で、国家の承認を受け、ナショナルな芸能として形式を変えること、また、インド移民・出稼ぎ民が移動先の社会において芸能を変化させることは、これまでにも起こってきた。だが、現在生起しているのは、国家の枠、あるいはインド移民社会の枠を越えたグローバルな受容・消費である。演者たちによるグローバルな移動と新たなネットワークへの参入がいかに起こっているのかを考察する。

  4. 芸能に表現されるインド社会の価値観の変化
    芸能は、我々が共有する世界観、存在の意味を眼の前に具現化してみせる、一種のメディアである。グローバル化するインド社会については、中間層の台頭や移民社会の現状についての研究が進んでいる。それらを踏まえ、国家、カースト、宗教、家族、ジェンダーなどを中心に価値観の変化を芸能の中に捉える。

芸能は、我々が共有する世界観、存在の意味を眼の前に具現化してみせる、一種のメディアである。グローバル化するインド社会については、中間層の台頭や移民社会の現状についての研究が進んでいる。それらを踏まえ、国家、カースト、宗教、家族、ジェンダーなどを中心に価値観の変化を芸能の中に捉える。