大河ドラマが10倍面白くなる!?
平安時代の日記から紐解く宮廷ライフの裏事情

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2024.5.21
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NHK大河ドラマ「光る君へ」で大注目の平安時代。雅な美しいビジュアルの中で渦巻く複雑な人間模様に毎週ワクワクしている人も多いのでは? そこで今回は、甲南大学文学部歴史文化学科の教授、平安時代がご専門の佐藤泰弘先生にインタビュー!ドラマの資料としても貴重な当時の「日記」に焦点をあて、平安の人々の人間味あふれる姿を紐解きます。

 

 

Contents

・ 平安時代は日記を書く人が続出!?

・ なぜ、平安の人は日記を書いたのか

・「小右記」に見る花山院のやんちゃぶり

・「花山院襲撃事件」は大スキャンダルだった!

・ 歴史を知ると社会の見え方が変わる

 

 

 

平安時代は日記を書く人が続出!?

 

 

今回の大河ドラマ、佐藤先生はどのようにご覧になっていますか。

 

佐藤 泰弘 先生

 

今風のドラマとして楽しんでいます。主人公のまひろ(紫式部)と藤原道長の関係がスリリングに描かれていますね。放送前から興味があったのは、一条天皇をどのように造形するかということで、君主たらんと頑張っている人物像は好きです。

 

 

 

 

あのストーリーは史実に基づいているのでしょうか。

 

佐藤 泰弘 先生

 

大枠は基づいていて、時代考証も丁寧だと思いますが、まひろ(紫式部)の日常や道長との関係について、脚本家の創作が面白いです。大河ドラマで描かれている平安時代中期は、日本の政治構造における重要な転換点でした。天皇の絶対性が揺らぎ、トップクラスの貴族たちによる摂関政治が固まった時期。そして、貴族たちの日記や物語が多く残された時代でもあるんですね。 

 

特に日記は、さまざまな立場の人が、それぞれの視点で当時の様子を書き残しています。たとえば、大河ドラマにも登場する藤原実資は『小右記』を、藤原行成は『権記』、藤原道長は『御堂関白記』を残しました。そうした豊富な資料を紐解くことで、この時代の状況や暮らしぶりを知ることができる。その研究成果が、この大河ドラマに活かされているなと思います。

 

 

 

 

 

 

なぜ、平安の人は日記を書いたのか

 

 

 

なぜ、摂関期には日記が多く残っているのでしょう

 

佐藤 泰弘 先生

 

暦の余白に書いたのが、貴族の日記の始まり

 

当時の朝廷(陰陽寮という役所)は、日々の吉凶等を記した「具注暦」という暦を作って貴族に配っていました。その具注暦の余白に、貴族たちは日記を書いた。つまり、日記を書く習慣は、具注暦へのメモとして貴族社会に定着したんですね。余白に書き切れない場合は裏側に書き、さらに足りない場合は、巻物なので途中で切って、紙を貼り継いで書くこともありました。

 

院政時代にも多くの日記が残されています。時代が下ると貴族社会と関係の深い寺院では日記を書き残す僧侶も現れましたが、武家には日記を書くという習慣が浸透せず、それは戦国時代になっても変わりませんでした。室町幕府の蜷川親元の『親元記』(15世紀後半)、島津義久の重臣である上井覚兼の『上井覚兼日記』(16世紀後葉)、徳川家康の側近である松平家忠の『家忠日記』(16世紀後葉)など、残されている武家の日記はわずかです。

 

 

 

そもそも、貴族たちは何のために日記を書いたのでしょう。

 

佐藤 泰弘 先生

 

読まれることを前提として、子孫のために書いた

 

この時代の日記は現代とは違い、個人的な日記ではなく、これを参考にして世を渡っていけるように、子孫に読ませるために書いたようです。また、朝廷の行事など先例を確認する時に紐解く資料でもありました。ですから、プライベートな内容だけでなく政務や儀式の記録のような日記が多かった。誰かに読まれることが前提で、本人が書いた日記を子孫に残しました。自分の家の日記として、大切に後世に残しただけでなく、儀式の作法を知るために他の貴族が書写することもあったのです。

 

 

 

 

 

 

「小右記」に見る花山院のやんちゃぶり

 

 

 

そういえば、ドラマでも藤原実資が妻に

「日記をお書きなさいよ」と言われていますね。

 

佐藤 泰弘 先生

 

あのように言われていたかはともかく(笑)、藤原実資は超有能で真面目な人物だったようです。『小右記』では半世紀以上にわたり、摂関期の人物と関わり合いながら政務や儀式をこなす姿や平安京での様子を細かく記しています。実資は花山院(天皇・上皇)との交流も深く、振り回されながらもよく仕え、花山院からも信頼を得ていました。

 

花山院の奇行に思わずぼやく藤原の実資

 

花山院は本当に変わった人物だったようで、在位中も出家した後も様々な奇行を繰り返します。そのたびに、実資は花山院をなだめ「こんなことでは困る」「如何なものか」と苦情の言葉を綴っており、彼の人間味あふれる姿が伝わってきます。

 

 

 

 

花山院は、どんなことをしたのですか?気になります。  

 

佐藤 泰弘 先生

 

たとえば、大河ドラマでも描かれた「豊明節会」。年に一度の重要な宮廷行事なのですが、女好きで知られる花山天皇は静かに過ごさねばならない「物忌」の最中にも関わらず、各所から集められた美しい舞姫(五節舞姫)たちの練習(常寧殿の試)をこっそり見物したり、宿所を徘徊したり・・・・・・その様子に実資は「未聞のことなり、如何なものか」と愚痴をこぼしています。

 

 

 

 

天皇がそれでは、愚痴もこぼしたくなりますね(笑)

 

佐藤 泰弘 先生

 

正月の雪の日には内裏の中庭に雪山を作り、侍臣に漢詩を作らせ、音楽も演奏させたので、「非常に変わっていると思う。御斎会(宮中の仏事)の期間なのに、そんなことがあってはならない。」と実資は書き残しています。当時、花山院は18歳。平安時代の18歳は大人であり、若き君主としての働きが求められましたが、花山院の行動には、どこか子供っぽさが残っていますね。

 

また、退位して30歳をすぎた頃、「密かに熊野詣に行きたい」と花山院が突然言い出すんですね。多忙な時期に上皇が行くと現地に迷惑がかかると、藤原道長の進言で一条天皇は藤原行成を使者に立てて思い止まらせようとするのですが、行成ではとても説得できない。困った天皇は実資に仲介を求め、結局、花山院の熊野詣は取りやめになりました。行成の日記『権記』にもこの件について記述があり、上皇に振り回される貴族たちの宮廷ライフが垣間見えます。

 

 

 

 

「花山院襲撃事件」は大スキャンダルだった!

 

 

佐藤 泰弘 先生

 

「光る君へ」の第19回と第20回でも描かれていましたが、花山院といえば、藤原道長の覇権が確立する「長徳の変」の一因となった「花山院襲撃事件」という大事件があるんですよ。

 

 

 

 

藤原道長のライバルだった兄弟が起こした事件ですね!

 

佐藤 泰弘 先生

 

そうです、藤原道隆の息子の伊周と隆家です。『栄花物語』という歴史物語によると、事件の発端は、伊周の勘違いだったんです。花山院の色好みは出家してからも変わらず、亡くした妻の忯子の妹(四の君)を見初めて、その館に通っていました。同じ館の三の君の元に通っていたのが伊周です。彼は花山院が自分の目当ての女性の元に通っていると勘違いし激怒します。それを聞いた弟の隆家が「脅してやれ」ということになり、従者に命じて、あろうことか花山院に向けて矢を放ち、それが花山院の衣の袖を通した。

 

 

 

 

 

 

院に矢を放ったとなると大事件では?

 

佐藤 泰弘 先生

 

当時、平安京では武装が禁じられていて、公式に弓矢を持つことができたのは武官だけでした。現代でいうと銃火器を所持するようなものですね。ですから、矢を放つことはもってのほか、ましてや、院を射たとなれば大事件。現代でいうとライフルで威嚇射撃するようなことです。このことだけでも驚きですが、本当はもっと凄惨な事件だったようです。藤原実資は「(花山院の従者である)御童子二人を殺害し、首を取って持ち去った」と『小右記』に書き残しています。歴史物語と日記の書きぶりの違いも興味深いです。

 

 

 

 

歴史を知ると社会の見え方が変わる

 

 

 

平安の時代を生きた貴族も、愚痴を言ったり、

ぼやいたりしたことを知ると身近に感じます。  

 

佐藤 泰弘 先生

 

自分たちの祖先が過去に何をしたのか、どういうことを考えてきたのかを知ることは、すぐには役に立たないけれど、実は役に立つんですね。自分の人生経験だけではない知恵や知識を、長い歴史を通して認識できる。それができなければ、私たち人間は動物と変わらなくなってしまいます。そして、ドラマも、ゲームも、小説もきっと生まれてこなかったでしょう。

 

また、歴史を学ぶということは結論ではなくプロセスを学ぶことに繋がります。先人たちのいろいろな考え方を知ることは、さまざまな場面で応用がきく。1000年前の時代を生きた人々の価値観や、現代人とは異なる激しい感情の揺れ幅を認識することで、社会現象の見方が違ってくるかもしれません。

 

 

 

今回お話しを聞いた人
甲南大学 文学部歴史文化学科科 佐藤 泰弘 教授

1963年、徳島市生まれ。京都大学文学部史学科(国史学専攻)卒業、同大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。京都大学博士(文学)。甲南大学文学部社会学科講師、助教授を経て、現在、文学部歴史文化学科教授。著書は『京都大学博物館の古文書第11輯 永昌記紙背文書』(思文閣出版、1993年)、『日本中世の黎明』(京都大学学術出版会、2001年)など。

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