20年ぶりの改刷、新紙幣について紹介!
新たに描かれた人物は平生釟三郎と関係も!?
新たに描かれた人物は平生釟三郎と関係も!?
2024年7月3日に、新紙幣が20年振りに発行されます。新しいお札を早く見てみたいという方もいらっしゃるのではないでしょうか?今回は、そんな新紙幣のデザイン・変更点、その目的、影響などについて紹介します!新1万円札に描かれる「日本近代社会の創造者」と呼ばれる渋沢栄一と甲南学園創立者の平生釟三郎との交流エピソードも紹介します!
Contents
・ 新紙幣の主な変更点
・ 改刷の理由
・ デザインの決まり方
・ 新一万円札に描かれた渋沢栄一と平生釟三郎の関係
KONAN-PLANET 記者
新紙幣の主な変更点は?
今回は、1万円札、5千円札、千円札のすべてのデザインが変更されます。表面(肖像)に描かれる人物中心に、それぞれ見ていきましょう!
新1万円札:渋沢栄一(1840~1931)
渋沢栄一は「日本近代社会の創造者」と呼ばれ、実業界で活躍した人物です。
27歳のときに徳川幕府15代将軍である徳川慶喜の弟・徳川昭武に随行して欧州諸国を訪問し、近代的な社会制度を学びました。
日本へ帰国したあとは商法会所の設立を行い、明治政府では大蔵省の官僚としてさまざまな政策の立案に関わるなど、明治維新後の国づくりに大きく貢献しました。
官僚を退任したあとは、第一国立銀行や東京証券取引所、東京商法会議所などの設立に尽力し、生涯で約500社の企業に関わったとされています。
新5千円札:津田梅子(1864~1929)
津田梅子は、女子英学塾(現・津田塾大学)の創設者として知られる人物です。6歳のときに「日本初の女子留学生」として岩倉使節団とともに渡米し、米国で初等中等教育を受けて17歳のときに日本へ帰国します。その後、再度渡米を経たあとの1900年に女子英学塾を設立し、女性の地位向上と女子高等教育の普及に大きく貢献しました。
新千円札:北里柴三郎(1853~1931)
北里柴三郎は、「近代日本医学の父」と称される微生物学者です。18歳のときに古城医学所兼病院(現・熊本大学医学部)にて医学の道に進み、その後、東京医学校(現・東京大学医学部)やドイツのベルリン大学で医学を学びます。
ドイツへの留学中には破傷風菌培養の成功や破傷風菌抗毒素の発見を行い、血清療法へと発展させました。日本へ帰国したあとは、伝染病研究所や慶応大学医学部の創設、日本医師会などの医学団体・病院の設立などを行い、伝染病予防や細菌学の研究に生涯を通じて従事しました。
偽造防止技術として、3Dホログラムを用いた小さな肖像などが印刷されます。見る角度を変えることで見え方が変わる立体的な特殊印刷で、紙幣に用いられるのは世界初です。また、「高精細すき入れ」で肖像の周囲により細かな連続模様が施されます。
ユニバーサルデザインとして、指の感触により識別できるマークの形状変更(券種ごとの配置変更)、額面数字の大型化などの変更も行われます。
KONAN-PLANET 記者
改刷の理由は?
紙幣が改刷される理由は、にせ札、つまり偽造を防止するためです。そのために、先ほどのような新しい偽造防止技術を加え、デザインも一新しています。改刷の時期は定まっていませんが、およそ20年ごとに実施され、これまで53種類ものお札が発行されています。
KONAN-PLANET 記者
デザインはどうやって決まる?
紙幣に描かれる人物は、財務省と日本銀行、国立印刷局の三者によって協議され、最終的には財務大臣が決定することが日本銀行法によって定められています。明確な基準は示されていませんが、以下の観点と、明治以降の人物から採用されていることが財務省ホームページで公開されています。
(1)偽造防止の観点から、なるべく精密な写真を入手できること
(2)肖像彫刻の観点からみて、品格のある紙幣にふさわしい肖像であること
(3)肖像の人物が国民各層に広く知られており、その業績が広く認められていること
新1万円札の顔・渋沢栄一と
甲南学園創立者平生釟三郎との関係
左:渋沢栄一 右:平生釟三郎
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)
「日本近代社会の創造者」と呼ばれ、新1万円札の顔になった渋沢栄一。実は、甲南学園の創立者平生釟三郎とも様々な交流がありました。2人のエピソードを甲南学園総務課で学園史資料を担当する溝上さんに聞いてみました!
KONAN-PLANET 記者
溝上さん、よろしくお願いします。
2人にはどのようなつながりがあったのでしょうか。
溝上さん
2人の交流は、平生釟三郎日記やその他の資料から伺うことができます。いくつかご紹介しますね。
渋沢栄一の逝去
1931年11月11日に渋沢は亡くなりますが、平生釟三郎日記(第12巻)には、その前日、危篤状態の渋沢を平生が見舞った様子が記載されています。
11月10日、渋沢邸に到着した平生は、応接室に案内され、渋沢と交流のある名士の方々と渋沢の偉大さ、感化された出来事などを語り合いました。その後、平生が書生時代から渋沢と交流があったこと、さらに運命ともいうべく偶然上京していたことなどから、渋沢の病室に案内され、最後の挨拶をしました。その時の心情を平生は「余ハ一生ヲ日本ノ産業ノ発展、日本ノ経済的進歩ノタメニ尽クサレ、我国実業ノ慈父トモイフベキ偉人ノ臨終ニ会シテ不覚感涙ニ咽バザルヲ得ザリキ。余ハ未曾有ノ国難ニ際シ、澁澤翁ノ如キ国家ノタメ社会ノタメニ事業ノ発展、富力ノ増進ニ尽力セラレ、実業家ノ典型タリシ尊キ偉人ヲ失ヒタルヲ悲マザルヲ得ズ」と述べています。
また、翌11月11日の日記では、「今朝一時三十分澁澤子爵終ニ逝ク」として、新聞上での渋沢についての名士の発言を引用し、民間の1私人としての功績の偉大さ、私心を捨てて国家社会のために全力を尽くした点で他に類を見ない人物であったこと、そして「国民ハカカル大偉人ニ対シテ如何ナル謝恩ノ方法ヲ講ジテモ尚足ラザルヲ思フダロウ」と述べ、渋沢の功績をたたえています。
東京海上保険(現東京海上日動火災保険)への採用
平生の活躍は、東京海上保険(現東京海上日動火災保険)から始まりますが、実は華族等出身者の総代理人として同社を創立したのは渋沢です。渋沢は創立後、同社から一度離れますが、同社経営危機に際し、再度取締役に就任します。実は、その取締役に就任した1894年に、平生が新入社員として同社に入社しています。同社の同年5月付け稟議書「社員採用ノ件」(「高等商業学校卒業生平生釟三郎ト申ス者至極好人物ニ相考エ候間同人ヲ雇入レ給料八十円ノ支給仕リ度ク此ノ段御評議ヲ仰ギ候也」と書かれた稟議書。東京海上八十年史(1964年)295頁参照)に渋沢も取締役として押印しています。不思議な縁ですね。
平生フィロソフィー「人生三分論」の手本
渋沢は古希を前に実業の第一線から身を引きつつ、69歳で「渡米実業団」を率いてアメリカを訪問しタフト大統領と面談しました。また、74歳で政財界の要請を受け日中経済界連携のために中国を訪問しました。翌年に渋沢が大阪を訪問し平生らと面談した日の平生釟三郎日記には、「七十五才ノ老翁ガ三十日間ニ支那ニ於ケル主要都市ヲ巡遊シテ其使命ヲ全フスルニカメラルヽ其精力ト誠意ハ、他人ノ模倣スベカラザルトコロニシテ、感偑ノ外ナシ」と記載されています。平生自らも1935年に70歳で政財界の要請を受けてブラジル訪問経済使節団団長としてブラジルを訪問します。また、翌年には71歳で文部大臣となっています。「公のため」という姿勢を渋沢の生き様に学んだのかもしれません。
KONAN-PLANET 記者
溝上さん、ありがとうございました。
紙幣を通じてその人物の活躍やエピソードも知ることで
新たな発見がありますね!
20年振りの新しいお札の発行、楽しみにしましょう!
【引用】
・新紙幣はいつから発行される?選ばれた人物は誰か、旧紙幣は使えるのか、くわしく解説! | 三菱UFJ銀行 (mufg.jp)
・20年ぶりに新紙幣発行!その隠された狙いとは【エコノミストの永濱利廣さんが解説】(毎日が発見ネット)|dメニューニュース(NTTドコモ) (docomo.ne.jp)
・紙幣の肖像の選定理由を教えてください : 財務省 (mof.go.jp)