哀しみの町コウベ
経験したことのない揺れで飛び起きた。と言いたいが、実際には目を開けることさえできず、揺れが収まってようやくベランダへ出た。 暗闇の中、周囲の家々が慌てて明かりをつける様子がわかったが、京阪沿線の自宅周辺では被害は見当たらなかった。TVで大阪駅前のクレーンが傾いている様子が映っていたが、電車も不通とのことで「予期せぬ休日」と決め込んで二度寝した。次に目覚めるとTVから神戸の被害が伝えられはじめていた。たった二日前、季節外れの陽気の中、大学入試センター試験の係員として出勤し、トラブルもなく「平和」をかみしめていたというのに。
ようやく非常事態を認識し、通勤でよくご一緒した中西学長宅に電話をした。「理学部棟で火事があり、職員が駆けつけて消火した」とご家族からお聞きする。当時理学部事務室の所属であった私の不安はいよいよ身近なものとなった。その後、家の電話はつながらず、緑の公衆電話に並んで断片的な情報を得るしかなく、大学が一体どうなっているのか不透明なまま、三日後に通勤を再開した。
阪急電車は梅田から西宮北口駅まで通っていた。駅で目にした「哀しみの町コウベ」という新聞の大きな見出しが心に刺さった。TVで見ていた映像も重なり、最悪の状況が頭に浮かぶが、「悲しんでいる時間はない」と自分に言い聞かせ歩き出した。ガスと土埃の匂い。立ち上る煙とサイレン。余震に足がすくみながらも、倒れたブロック塀の上をただただ西へ向かう。大学に到着して電話交換を手伝ったが、先輩たちからは「明るいうちに帰りなさい」と気遣ってもらい、帰路を考えると実際に仕事ができる時間はわずかだった。
学生たちは寒い中、水が噴き出している場所まで往復し、水汲みを続けてくれていた。「お水あります」、「おにぎりどうぞ」と書いた札を出している家も少なくなかった。それぞれが自分たちにできることを自然にやっておられた。そこで感じた温かい「希望」のようなものは、駅で感じた重苦しい空気を吹き払ってくれた。現地の学生、教職員、住民の皆さんの力強さ、優しさに救われた思いがした。五学園をはじめ、全国の大学から直接寄せられたご支援や、「教育・研究を止めてはならない」と文部省に支援を訴える声を届けてもらったことが、どれだけ心強かったことか。「復興」することが「責任」だと心を一つにし、日常の復旧に加え、入試、卒業、入学、授業・・と着実にやるべきことをクリアしていった。「おかげ様で卒業できました!」と深々と頭を下げて卒業証書を受け取りにきた学生たち。彼らの曇りのない笑顔こそが、私たちにとってはまぶしいほどの「希望」だった。
「常ニ備ヘヨ」。まるで短い「予言」のように響いた5文字。未来の私たちに託された言葉を、今度は私たちが未来につないでいくのだ。
過去の水害に続く震災、その後も繰り返し起こる災害。大切なものが失われ、深い爪痕を残し、不安に立ちすくんでしまうときもある。 どんな時も、そんな時こそ、ただ恐れるのではなく、人を思いやり、「希望」を持ち続けていく、そんな「心」を備えておけるように。
2025年6月

