阪神・淡路大震災の記憶
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災から、今年で30年が過ぎようとしている。そのときの記憶は私の中では薄れつつあるが、神戸をはじめ甲南大学にも甚大な被害をもたらした当時の様子について、私個人の目線ではあるが、伝えていくことで何か役に立つことがあればと思い執筆することとした。
あのとき、私は自宅の激しい揺れに驚き目が覚め、まずはそばにいた母とお互いの無事を確認し安堵した。幸い自宅の被害は少なかったが、近くの仁川まで様子を見に行くと、これまでの風景が一変していた。自衛隊の部隊が救助活動を行っていたが、それは多くの人命にかかわる災害であることを表しており、実際、大規模な地滑りが発生していた。目の前から消えてしまった現場の一角に私の後輩が住んでいたが、どうか無事でありますようにという祈りは虚しく、彼女をはじめたくさんの尊い命が奪われた。その場所には現在、慰霊と将来への教訓を伝えるための地滑り資料館が造られた。
当時私は入試事務室(現在のアドミッションセンター)に在籍していた。通勤に利用していた阪急電車は、西宮北口から夙川間の高架橋が倒壊したため、職場の先輩と一緒に2号線沿いを自転車で通った。倒壊した建物のがれきで塞がれていた道路や大きくひびの入った道路を避けるために、かなり遠回りをするしかなかった。震災直後の甲南大学の校舎については断片的な記憶しかないが、入試関係の資料や荷物を取り出すために、半壊状態の建物にヘルメットをかぶって入ったことは今でも鮮明に覚えている。その年のセンター試験が1月14日(土)・15日(日)に実施されていたため震災の影響を受けなかったことが、唯一の救いであった。翌2月に一般入試を実施することができたのは、入試会場を提供していただいた関西大学や神戸学院大学のおかげであることは言うまでもないが、未曽有の有事の中で、甲南大学教職員が一丸となり、入試を実施するという強い意志をもって朝から夜遅くまで様々な対応に頑張ったからこそ成し遂げることができたのではないだろうか。震災を経験した私の教訓として伝えたいことは、一人一人の存在はとても弱く儚いものではあるが、お互い助け合い協力することで何倍もの力を発揮できるということである。
2025年2月

