「その時」は、岸和田市の実家で迎えた。後期試験初日、1時間目の試験監督に当たっていて、すでに起きていた。前日は30歳の誕生日であったが、生まれてこの方、経験したことのない揺れである。激動の日々が始まった。
初めて被災地に足を踏み入れた時の光景は、今なお鮮明だ。「これは、戦場なのか」。どこまでも続くがれきの山と土埃、茫然と立ちすくむ人、報道ヘリの轟音、緊急車両のサイレン…。あらためて犠牲になられた皆様に哀悼の意を表するとともに、学園復興へのお力添えに感謝いたしたい。
非日常は、人柄をあぶり出す。私からは、当時観察された、様々な人の振る舞いを紹介させていただく。
震災から4日後の1月21日は、学園の給料日だ。驚いたことに、給料は遅配なく支給された。聞けば、担当職員ががれきの中からデータを探し出し、自転車で三宮の銀行まで届けたという。余震が続く危険極まりない中を、である。安否が確認できない一人暮らしの職員がいた。ある職員が復旧作業の合間に駆けつけ、救い出した。誰に命じられたわけでもない。
こういう話がいくつも聞こえて来たが、それらは学園の行く末を案じ、不安に思う私を奮い立たせてくれた。
私の入職当時は、花見で酔った学生たちが夙川に飛び込み大騒ぎになるなど、甲南生の評判はあまり芳しくなかったように思う。しかしながら震災は、甲南生の評判を一変させる。本学の避難所運営を一手に担ったのは、自主的に集まって来た彼らである。彼らは事務部門の復旧作業にも力を貸してくれた。ボランティアが一般的になったのは、震災の後だ。彼らの協力がなければ、復旧はもっと遅れただろう。
桜の咲く頃、多くの方から感謝の声を聞いた。甲南生の面目躍如であった。
平生先生の「常ニ備ヘヨ」は、一般的に備えの大切さを説いたものと解されているようだが、当時を思い返すと別の解釈が思い浮かぶ。「有事にできるなら、日頃からそうしなさい。」と平生先生は仰ったのではないだろうか、と。
2025年1月

