戦国の物語は江戸で“盛られた“⁉
ドラマでは描かれない豊臣兄弟と戦国時代の裏事情
ドラマでは描かれない豊臣兄弟と戦国時代の裏事情
躍動感あふれるNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』。歴史ファンならずとも、戦国の乱世をいきいきと、したたかに生きる武将たちの物語に毎回胸が躍ります。しかし、私たちが「見ている」ドラマや歴史の物語は、本当に「当時のリアル」を描いているのでしょうか。そんな疑問を解消すべく、甲南大学の文学部歴史文化学科教授、東谷 智先生にインタビュー。戦国時代の百姓の姿とは?豊臣政権の功績とは?さまざまな角度から「真実」に迫ります!
Contents
・「戦国時代」って、こんな時代
・戦国から江戸へ、時代の大転換
・江戸の人々から見た豊臣兄弟
・歴史を学ぶ=見抜く力の習得


KONAN-PLANET 記者
先生のご専門についてお聞かせください。

甲南大学 文学部 歴史文化学科 教授
東谷 智 先生
東谷先生:専門は日本近世史です。平たく言うと、「江戸時代の日本史」ですね。研究には三つの柱があります。一つは藩や大名、幕府といった行政や税金などの制度について。二つ目は、そうした行政を享受する一般の人々と政治との関係性。そして三つ目は、江戸時代の様々な資料そのものについての研究です。
ー今日は大河ドラマ『豊臣兄弟!』がテーマということですが…
東谷先生:実は、大河ドラマをもうずっと見ていません(笑)。というのも、家で私が大河ドラマを見ると、「ここは史実と違う!」といろんなことを言うものでうるさいらしく、家族は私のいない時に見ているという状況です・・・。ですので今日は、歴史研究者の視点から「おそらくこういうことなんじゃないかな」ということをお話しできればと思います。

ードラマでは、罪のない農民たちが武士に理不尽に殺されるシーンがありました。その中で秀長が「こんな世の中はおかしい」と奮起する姿が描かれていたのですが、実際の戦国時代もそのような時代だったのでしょうか。
百姓と武士の境界線がなかった戦国時代
東谷先生:そもそも戦国時代には、武器を持っている人たちが村の中にもいました。地域の有力者などが大規模な戦争をする場合には、そうした村にいる武力を集めることで軍事動員を行っていました。
ポイントは、武力が「村の中」にあったという点です。戦国時代は百姓と武士の境界線が明確に分かれていませんでした。普段は畑を耕したり田んぼを作ったりしている人が、村の大将のような人から「あっちの戦に行くぞ」と言われたら、耕作をやめて武器を持ってついていく。ある時は武器を持って戦い、ある時は鎌を持って稲を刈る「半農半士」のような人々が村にたくさんいたんです。
ですから、「武士に対して憧れを持つ」「武士になることを決意する」という感覚が当時の村の人々にあったのかな?と思いますね。ちなみに、戦国時代の戦は、農作業の邪魔にならないよう農閑期を狙って行われていました。
ー「ええ!? 戦争をするのに、そんな配慮があったのですか。
東谷先生:はい。そうしなければ、農作物が収穫できず食物がなくなり、たちまち領地の人々が生きていけなくなってしまいますし、武将も税金=年貢を得ることができません。敵の領地の百姓を皆殺しにするような暴挙に出れば、その領地の翌年の税収はゼロになるので、そんなことは誰もやろうと思わなかったはずです。不幸にも巻き込まれて亡くなることはありますが、敵の領地を壊滅的な状態にすることは絶対に避ける、というのが、おそらく当時の共通認識だったと思います。
村が被害を受けて奮起するというのは、物語上の動機付けとしては非常にうまくできています。けれども、それがクローズアップされすぎると「戦国時代は武士が百姓を虐げる社会」という誤ったメッセージになりかねません。



KONAN-PLANET 記者
ドラマの中では、戦が始まり村の若者たちが
息巻くシーンが描かれていました。
庶民にとって、戦争とはどのようなものだったのでしょうか。
東谷先生:戦争が起こると、一瞬のうちに立身出世ができる可能性が生まれる、というのは事実です。江戸時代の平和な社会とは違い、敵の武将を倒せば、一気に自分の地位を上げられるチャンスがありました。
でも、戦争が起きれば軍勢が通った後の田畑は踏み荒らされ、また一から耕し直さなければなりません。戦争は予定通りにいきませんから、どれだけ避けようとしても不測の事態は起きますし、人が死ぬということもある。決して「戦争が起こって嬉しい」と思っていたわけではないと思います。
戦国時代、敗者から金品を奪うことは権利だった
東谷先生:庶民にとっての一番大きな問題は、「戦争が終結した後」にありました。合戦が決着すると負けた側は逃げていきますが、戦国時代は、「逃げ惑う敗者からものを奪う行為」が権利として認められていたんです(乱取り)。逃げていく人たちの持ち物を奪って、自分のものにして換金してもいい。これが、戦国時代の考え方です。
その生々しい様子を描いているのが、大阪城天守閣に所蔵されている『大坂夏の陣図屏風』です。左右の屏風が対になっていて、徳川方が大阪城を攻める様子を描いた右側の屏風が有名です。

東谷先生:一方、あまり紹介されることのない左側には、合戦が終わった後、逃げ惑う庶民のリアルな姿が描かれています。よく見ると、勝った側の足軽クラスの人間が、逃げる人を捕まえて荷物を奪い取ろうとしている。乳飲み子を抱えたお母さんを捕まえて着物まで剥ぎ取ろうとしている者もいる。戦争が起こった際、庶民がどのような悲劇に巻き込まれたかがよく分かります。
「明智光秀は土民の竹槍に刺されて死んだ」と言われますが、あれも、立派な甲冑や兜などを奪おうと襲ったら、それがたまたま光秀だったと理解できます。今の時代では信じられないことですが、これも当時は合法的な行為でした。
ーなんと壮絶な…。逃げた庶民たちは、その後どうなるのですか。
東谷先生:多くの戦国大名は敵地を占領して新しい領主になると、逃げた庶民に「戻ってこい」と呼びかけました。百姓に田畑を耕してもらわないと税金が取れないからです。荒らされた村をすぐに整備し、安心して暮らせる環境を整えてくれる、ということになれば、庶民も「ああ新しい領主っていうのは、我々の生活を考えてくれてるんだな」と安心する。こうしたことは、「戦後処理」の中で一番大事なことでした。

ー戦争は出世のチャンスでもあるけれど、すべてを失うリスクと隣り合わせだったんですね…。そんな混沌とした時代から、どのようにして平和な江戸時代へと転換していったのでしょうか。
戦国大名たちの「戦争の効率化」が専門武士を生んだ
東谷先生:大きな転換点となったのが、戦国大名たちによる「戦争の効率化」です。それまでは、村々から武器を持った人を寄せ集めて戦争をしていましたが、これだと招集に時間がかかるし、農閑期しか戦えません。それなら、武器を持つ連中を自分が住む城の周りに住まわせて、いざという時にすぐに出陣できるようにした方が効率がいい。武器も各村に残しておくより、城の周辺に全部集めておき、必要な時に持って行けるようにした方が管理もしやすい。こうした効率化を進めると、一年中、戦争ができるようになるわけです。
そこで各大名は、村の親玉たちに「武士として城下に出てくるか?それとも百姓として農村に残るか?」という選択を迫るようになります。それにより、半分百姓で半分武士だったような人々は「長男は村に残って農家を継ぎ、次男は城下へ行って専門の武士になる」といった選択をしていきました。
この結果、村に残った人々は耕作に専念することになり、城の周辺には武士集団が住むようになる。これが、江戸時代の城下町の原型です。
学校の歴史の教科書では、「兵農分離」という言葉で出てきますが、「武士と百姓の身分が分かれて、武士が上で百姓が下」という身分制の話ばかりが強調されがちです。本当に大事なのは身分の上下ではなく、「住む場所が完全に分離」し、「村から武力が消えた」ことにあります。

ーなるほど!専門の武士が生まれていく背景には、そうした社会の大きな変化があったんですね。豊臣秀吉や秀長の兄弟も、そうした時代の中で登場した存在だったのでしょうか。
「農民出身の武士」は決して珍しくない!?
東谷先生:その通りです。秀吉は「農民出身の成り上がり」として特別視されがちですが、江戸時代に大名になった家には、もともとは地域や村の有力者もいます。ですから秀吉だけが特別に成り上がったわけではありません。
ーちなみに、後に天下を取る徳川家康はどうだったのですか。
東谷先生:家康の先祖には、室町幕府の地方役人だった者もいるので、秀吉に比べればちょっと立場は異なります。室町時代から名門とされる細川家や今川家と比べれば、家康も「地元のちょっとした有力者」レベルに過ぎません。


KONAN-PLANET 記者
戦国から江戸へと時代が移り変わる中で、
豊臣政権が行った政策は後世にどのような影響を与えたのでしょうか。
京ではなく「西」を目指した戦国武将たち
東谷先生:よく戦国時代は「京都へ上洛して天下統一を目指すストーリー」として描かれますが、ほとんどの戦国大名は、京都に行くことなんてこれっぽっちも考えていませんでした。彼らの頭の中にあったのは、いかに最新の軍事力を手に入れて目の前の戦争に勝つか、でした。
当時、日本で最も最先端の軍事資源が入ってくる場所はどこだったかというと西洋との貿易が行われていた「九州」です。だから大名たちは、京都ではなく西へ向かいました。中国地方の毛利氏も、本州を東へ進むのではなく、貿易が盛んな九州の豊後の国を目指しましたし、鹿児島の島津氏は最先端の拠点を動くつもりは全くなかったはずです。あの信長でさえ、鉄砲や財力を手に入れるために巨大貿易都市・堺の支配権を求めました。
ですから、秀吉の天下統一というのは当初からの「目的」ではなかったと思います。西国を制圧し、最後にどうしても従わない東北の奥州勢に手を付けた結果、いつの間にか「全国統一されていた」というイメージでしょうか。
この統一によって、秀吉は奈良・平安時代の律令国家以来、誰も成し遂げられなかった「全国一律の画期的な政策」を次々とやっていくことになります。その代表例が「太閤検地」と「刀狩り」です。
ーどんな点が画期的だったのでしょう。
「日本の国づくりの基礎」を築いた豊臣政権
東谷先生:太閤検地とは、全国の土地を同じ基準で測り直し、田畑の広さや収穫量を帳簿に記録していく大規模な土地調査です。これによって、全国のすべての土地が漏れなく帳簿に登録されたことで、「土地の所有者(納税者)」と「税金を取る側」が日本全国で明確に確定しました。また刀狩りによって、「武力は武士だけが使うもの、村に置いてはならない」というルールを徹底しました。豊臣政権のブレーンが作り上げたこれらの政策や仕組みは、まさに「江戸時代の基礎を作った」と言えます。

ー今の私たちの社会のベースも、豊臣政権が作ったと言えるのでしょうか。
東谷先生:そうですね。特に秀吉が始めた「米本位制」は大きな経済政策の柱になりました。すべての経済基準を「米」を中心に回る社会に変えたのです。「加賀百万石」というのも米の収穫量の単位ですし、税金はすべて米で計算され、米で徴収されました。武士の給分も米で計算して支給されます。この秀吉が作った「米中心の経済システム」は、江戸幕府も最後まで変えることができませんでした。これが変わったのは明治時代で、明治政府が貨幣を「円」に統一してからのことです。そういう意味では、秀吉は、日本の国づくりにおいて、とても重要な役割を担ったことになります。
ー劇中では、豊臣兄弟の「戦国の世を終わらせて平和な世の中を目指す」という思いが描かれています。実際はどうだったのでしょうか。
東谷先生:それは、あとの時代に作られた「後付け」と思いますよ(笑)。むき出しの権力闘争を繰り広げていた人たちですから、「庶民の幸せのために」戦っていたわけではなく、純粋に「自分の力をつけたい、のし上がりたい」という欲望があったのだと思います。現代の政治家たちが、私たちのことをどこまで考えているのか…というのと同じようなレベルだと思いますね。
ーでは、豊臣の時代は決して「平和」ではなかったのですね。
東谷先生:「戦争が起きないこと」を平和と定義するならば、豊臣の時代は平和とは言えません。当時の庶民は「いつまた次の戦争が起きてもおかしくない」と、ビクビクしながら暮らしていたはずです。自分の子供がいつ戦争に巻き込まれるか分からない、いつ略奪に巻き込まれるか分からないという不安が、いつも隣にありました。
おそらく、庶民が「戦争が起きない社会になったな」と実感できるようになったのは、江戸幕府の五代将軍・徳川綱吉の時代ですね。この頃になると、世の中から戦争経験者が完全にいなくなります。生きている人間が全員、戦争を知らない世代になったことで、かなり「平和だな」という認識に変わっていきました。
ー「江戸の庶民」は、豊臣兄弟をどのように見ていたのでしょうか。
「戦争」はやがて、庶民の娯楽へ
東谷先生:戦争の心配がない時代になると、かつての悲惨な戦争が読み物になったり、歌舞伎の演目として上演されるようになります。生々しい戦争の実感がなくなったことで、戦争が庶民の娯楽へと変わっていったのです。
特に1700年代半ば以降は出版文化が盛んになり、戦国大名たちの活躍を描いた「戦国もの」の本が売れるようになります。ただ、史実通りに書かれると、徳川幕府としては非常に都合が悪いんですね。徳川家康がもともと「豊臣家の家臣」だったという真実が、庶民にバレてしまうからです。
そこで、幕府は権威を守るため、徳川家が登場する歴史本や演劇を厳しく取り締まる法令を出します。けれども、そこは、江戸の庶民たちも賢くて、取り締まりをすり抜けるためのユニークな「抜け道」をいくつも編み出しました。インターネットの「国書データベース」などで見られます。一部をご紹介しましょう。


「太閤記」を「太功記」に
「太閤」は秀吉のこと。太閤記の「閤」という字を、わざと「功」という字に変えて『絵本大功記』とし、架空の別人の話とした。その脚本がいくつも残されている。
登場人物の名前も小細工
実在のままだと幕府に怒られるので、羽柴秀吉を「真柴久吉(ましばひさよし)」、織田信長を「平の春長(たいらのはるなが)」、明智光秀を「武知光秀(たけちみつひで)」と、本人を想定させる別名で歌舞伎や浄瑠璃を演じ、規制をくぐり抜けていた。舞台を観ている観客にとっては当の本人の名前と同じように聞こえるため、さほど問題がなかった。
江戸の庶民にとって、徳川家は「現実社会への不満の対象(悪役)」だった。一方で、滅び去った豊臣家は、負けた側への思い入れも手伝い、「かつての黄金期を築いたヒーロー」として人気があった。経済状況が悪く米価が高騰するたびに、庶民は「徳川の政治はダメだ、それに比べて羽柴の時代は良かった」と、娯楽を通じて政権批判を楽しんだのかもしれない。

『繪本太功記』(神戸大学附属図書館所蔵)出典: 国書データベースhttps://doi.org/10.20730/100353730

ーところで、弟の秀長はどう評価されていたのでしょうか。
優秀な秀長像は後世の人が「後付け」した!?
東谷先生:秀長は一般的に、とても有能な名補佐役として描かれ、有能なブレーンがいたことでも知られています。実際、無能な指導者の元に優秀な人材は集まりませんから、彼自身の能力が高かったというのは事実でしょう。
ただ一方で、豊臣家が後に悲劇的な滅亡を迎えるストーリーの中で、「優秀な秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だったのに・・・」という人々の同情や思いが、彼の評価を必要以上に引き上げている側面もあると思います。彼がやったことの事実は動きませんが、歴史研究者としては、後世の人々が「どれだけ話を付け加えてきたか」を冷静に見極め、それらを順番にうまく剥ぎ取っていく作業が必要だなと感じています。

ー「それは本当なのか?」物語の裏にある背景を見抜く。
東谷先生:皆さんに知ってもらいたいのは、今我々がイメージをしている戦国時代というのは、「江戸時代に一旦フィルターがかけられている」ということです。本も歌舞伎も、ウケるために面白い話を付け足していったものが、いつの間にか現代の私たちが知る「史実」にすり替わっていることも多い。登場するキャラクターも、その時代時代の人々が感情移入しやすいように変わっていくでしょうし、事実ではないことが加わり流布していく、ということが今も繰り返されています。
現在の私たちも、その「江戸時代から続くエンタメの流れ」の中にいます。大河ドラマを純粋な娯楽として楽しむのは素晴らしいことです。ただ、研究者としては、「娯楽として楽しむ」部分と、「史実として何があったか」という部分、そして「いつ、どういう形で変化していったのか」ということを、すべてトータルで理解することが大事かなと感じています。
ー「それは本当かな?」という視点も大事ということですね。ところで、東谷先生は、いつも、どのような気持ちで歴史の研究をされているのですか。
戦国から江戸、明治へ。その変化から現代社会を知る。
東谷先生:人間の本質は、何百年経っても変わりません。100年経とうが200年経とうが、権力闘争に明け暮れる人間の発想は変わらないし、一般の庶民の楽しみも変わらない。お酒を飲みながら「最近の社会は・・・」とこぼすおっちゃんたちも、おそらく江戸にもいたはずですし、今と変わらないと思うんです。
そうした現代社会の構造を理解していく上で、江戸時代というのは、すごく良い「素材」なんですね。平安時代などと比べると、江戸時代の人々は圧倒的に現代人に近い感覚を持っていますし、江戸時代が現代社会のベースになっている部分も多い。戦国から江戸、江戸から明治という大きな変化を見ることで、現代社会を理解できる。そんなことが面白くて、研究し続けているのかもしれません。

ー私たちが歴史の見方をより深めるには、どうすればいいですか。
東谷先生:甲南大学の歴史文化学科で学んでいただくのが一番いいかと思います(笑)!本学科に入学してくる学生たちは、みんな「作られた物語の裏にある真実を調べたい」という知的な欲求が強いんですね。「ストーリー(創作)と事実(史実)」を分けるということもよく理解していますよ。
〈 ほんの一例! 〉 【東谷ゼミ】戦国時代をテーマにした卒論
●織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの天下人や、真田幸村、森蘭丸、大谷吉継などいわゆる敗者の側を扱った研究
●北政所、淀殿など、武家における女性の役割に着目した研究
●川中島の合戦、関ヶ原の合戦、備中高松城水攻め、本能寺の変など、様々な合戦や政変をテーマにした研究
その裏にある背景を「見抜く力」を身につけよう
東谷先生:どの時代でもそうですが、言われていることの裏には背景があります。「なぜ、誰が、どういう意図で、その物語を作り脚色して流したのか」。歴史を学ぶということは、そういう背景を見抜く力にもつながります。 私のように大河ドラマを素直に見られなくなる可能性もありますが・・・(笑)。でも、「ちょっと、ここ違うんじゃない?」と思いながら見るのも悪くないですよ。「歴史の真実を明らかにする楽しさ」を、歴史文化学科で、ぜひ一緒に共有しましょう。
- 今回お話しを聞いた人
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甲南大学 文学部 歴史文化学科
東谷 智 教授1970年、三重県生まれ。京都大学文学部史学科卒業、同大学院文学研究科博士後期課程研究指導認定退学。京都大学博士(文学)。甲南大学文学部歴史文化学科講師、准教授を経て、現在、文学部歴史文化学科教授。明石市、赤穂市、伊賀市、西宮神社など、文化財の保存と活用や自治体史編纂に関する委員を多数勤めている。著書は『忍者学大全』(東京大学出版会、2023、共著)、『松江市史』通史編近世Ⅰ、2019、共編著)など。
