阪神・淡路大震災の記憶
1月17日(火)5時46分、その日、私は堺の自宅で地震に遭遇した。とっさに家内に子どもの上に覆い被さるよう指示をした。初期微動をほとんど感じることなく、いきなり大きな揺れが襲ってきたので震源が近いことが分かった。ひょっとして中央構造線が動いたのだろうかと頭の中でよぎり、停電復旧後のテレビで状況を確認した。その時、神戸の震度が確定しておらず、各地の震度分布から神戸が震源であることに驚いた。8時頃になるとマンションやビルの倒壊、阪神高速の倒壊など、甚大な被害の状況が明らかになってきた。
当日、JR・民間の鉄道各路線は全休となったため、翌朝4時に国道2号線から学校に向かった。7時頃、「六甲アイランドでガス漏れの可能性があるため地域の方は避難するように」とラジオ放送が流れていた。神戸方面に向かう車が大渋滞であったことから、尼崎で交通規制がかかり、43号線に抜けて昼前に自宅に帰った。
3日目は国道43号線で学校に向かった。武庫川を越えたあたりから被害が次第に大きくなり、甲子園付近で阪神高速から落下しそうなバスを見ながら学校にたどり着くことができた。校舎は倒壊を免れてはいたが、南館一階部分の柱が座屈によって壊れ、どの柱も鉄筋がむき出しとなっていた。また、グラウンドは断層方向を示す東西性の大きな亀裂が走っていた。
学校から担任へ、「一般の黒電話よりも公衆電話がかかりやすいことから、各クラスの生徒の安否を公衆電話で確認するように」との指示が出た。クラスの生徒全員と連絡が取れたが、東灘区岡本在住の高校生が亡くなったとの報告が入り、その後、新聞紙面に掲載される死亡欄に生徒名がないかを毎日確認するようになった。ある日、長田区の死亡欄に同姓同名の名前を見つけ、学校の家庭調書で家族を照合したところ、本人、妹、祖父母が亡くなっていることを確認した。学校の指示で安否確認のために鷹取に向かったが、近くで道を尋ねた際、「本当に行くのか」と聞かれたことを覚えている。実際に鷹取に入ってみると、がれきが散乱した焼け野原の状態であった。全く偶然にも亡くなった生徒のお父さんに会うことができ、お悔やみをお伝えすることができた。
数週間が経ち、学年別の登校日が設定された。校長より亡くなった生徒の遺影をつくってほしいとの依頼があり、出入りの写真館に依頼をしてみたが、被災のため営業することができず、自ら印画紙と現像液を調達し、壁に穴の開いた夜の暗室で遺影を作成した。写真を焼き付ける際、現像液の中に亡くなった生徒の顔が現れ、思わず大泣きをしてしまったことを思い出す。亡くなった生徒二人とも、顧問をしているアーチェリー部の生徒だったのである。高校二年生は対話を通じて十分な指導ができていたが、中学3年生は「高校生になったら指導してあげるからね。」といって、十分な指導ができていなかった。このことが今でも悔やまれる。
震災から30年を経た現在、街は震災の傷跡を消してはいるものの、悲しく辛い記憶を消し去ることはできない。教育現場にいる中で、生徒と常に真摯に向き合うことをしなければ、私のように長い間悲しい思い出がよみがえってしまうこととなる。
今後数10年の間には、南海トラフ巨大地震の発生が危惧されているが、甲南学園の若い先生方は、どうか生徒・学生と真摯に向き合っていただき、継続的に心の通う指導をされることをお願いしたい。
2025年1月


