甲南学園震災アーカイブ 『学園が震えた日』

「常ニ備ヘヨ」

阪神・淡路大震災から30年、これからの備え #5

甲南大学名誉教授 藤本 建夫

 1995年1月17日、午前5時46分、阪神・淡路大震災によって、わずか十数秒間で近代的な大都市が無残にも破壊され、犠牲者は6400名を超え、また約24万9000棟が全半壊、約7000棟が全焼した。交通網は寸断され、その象徴が高架橋が横倒しになった阪神高速神戸線であった。酒造業、ケミカルシューズなどの地場産業の被害は見るも無惨で、そごう、大丸、三宮のダイエー村もこの大震災には耐えきれなかった。さらに川崎重工業は造船所を香川県坂出に移し、住友ゴム工業も神戸を去った。そして何よりも神戸経済に壊滅的な打撃を与えたのは国際コンテナ港への被害である。この大天災を機に神戸港は一気に衰退してゆくことになる。

 大震災は甲南学園を特別扱いしなかった。その余りに非情な自然の脅威に校舎の半分以上が破壊され、大正13年に建設された大学のシンボル的存在の1号館も崩れてしまった。大学では年度末試験が14日からはじまっていて、17日には、1万人ほどの全学生のうち、延べにするとほぼ同数の学生が試験を受けることになっていた。この大震災が数時間遅れていれば、学生はもちろんのこと、教職員を含めて想像を絶する被害が出ていたに違いない。なお試験はすべて講義およびテキストに関連するレポートに切り替わった。入試も当然延期された。

 学生たちは十数秒という恐ろしく永い瞬間をどのように耐えたのか。

 A君。「バキバキ、バリン、ものすごい音がして、私はコタツの中に身を隠しました。揺れがおさまりコタツから出ようとしたのですが、・・・出られない状態でした。コタツの上に天井がのっていて、1階のたたみと天井はわずか30センチだったのです。・・・時々くる余震、動くことのできない真っ暗な空間」。

 B子さん。「ドーンと下から強い力で突き上げられ、次の瞬間には脱水にかけられたように激しく縦横に揺さぶられた。〈怖い!〉。私は慌ててコタツの中にもぐり込み、ありったけの大声で叫びまくった。その間、グォーという地鳴りと柱がめちゃくちゃに折れてゆくようなとてつもない音がずっと続き、もうダメだと本気で思った。どれくらい時間がたったろう。揺れはおさまり、辺りはまるで何事もなかったかのようにシーンと静まり返っている。でもそれとは対照的に私の心臓はパクパクいって興奮冷めやらない状態だった」。

 この大震災で甲南学園は大学院生・学部学生16名、中学・高等学校生徒2名、同窓生19名を失った。

 2024年11月2日の日経新聞によると、神戸市の震災からの再開発は10月末にすべて完了し、29年を経てやっと復興事業が終了した。だが人口減の時代、新築ビルには空き室が目立ち、神戸は今新たな課題を突きつけられている。

 詳しくは、藤本建夫・森田三郞編『甲南大学の阪神大震災』神戸新聞総合出版センター、1996年、藤本建夫『地方都市再生の条件は何だろう―阪神・淡路大震災からの経済復興について考える―』22世紀アート、2023年を参照されたい。

2025年1月

 

9号館7階から海側を望む(1995年1月10日 震災直前)
9号館7階から海側を望む(1995年1月10日 震災直前)

9号館7階から海側を望む(1995年2月10日 震災後)
9号館7階から海側を望む(1995年2月10日 震災後)

9号館7階から海側を望む(2024年12月26日 震災から30年後)
9号館7階から海側を望む(2024年12月26日 震災から30年後)

 

藤本建夫 経歴
1946年生
1973年- 甲南大学経済学部 教員
1991年, 1994年-1995年 学長補佐
1997年-1999年 経済学部長
2015年 退職

主著に『何が地方都市再生を阻むのか : ポートピア'81, 阪神・淡路大震災, 経済復興政策』晃洋書房(2010), 『ドイツ自由主義経済学の生誕 : レプケと第三の道』ミネルヴァ書房(2008), 『東京一極集中のメンタリティー』ミネルヴァ書房(1992)などがある。また、『甲南大学の阪神大震災』(森田三郎と共編著)神戸新聞総合出版センター(1996)をはじめ、阪神・淡路大震災に関する著作も多い。

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