そのとき、私は東灘区の自宅で被災した。突然の激しい揺れに何が起こったのかすぐには理解ができず、揺れが収まったあと少し冷静になってようやく巨大地震だということがわかった。さまざまなものが散乱した床のうえを、暗がりの中、注意しながら玄関に向かい、ドアを開けようとしたが歪んで開かなかった。しばらくして、近所の人にバールでドアをこじ開けてもらい、ようやく外に出た。目の前の道路は崩れた家で塞がれ、前日に見た風景とは全く違う姿になっていた。近くの公園には無事だった人たちが集まっていた。
誰かが持ってきてくれたラジオからは、次々と耳を疑うような情報が流れてきた。
当時、入試事務室に配属されていた私は、2月1日から行う入試が実施できるかが気になり、被害を免れた車で大学に向かった。途中、信号が停止した交差点で、誰が交通整理しているわけでもないのに、順番を守りながらゆっくり整然と車が往き来していた様は、よくよく考えると驚くべきことだったように思う。
大学に着くと、真っ先に入試事務室があった2号館へと向かった。建物には大きなひびが入り、階段もガタガタになっていた。3階の事務室に入ると、ロッカーが傾いたりはしていたが、必要な資料などは無事だった。この日は、大学入試センター試験(現大学入学共通テスト)で回収した本学会場分の答案を返却した翌日で、もしもそれが学内に残っていたらと思い、ぞっとしたのを覚えている。
その後キャンパス内を見て回った。とても入試ができる状態でないことは一目瞭然だった。
数日たって、徐々に業務が再開されていった。9号館1階にあった電話交換室で教職員が交代で電話対応しており、私も何日か加わったが、ベテラン教員が率先して電話対応している姿を見て、勇気をもらい、とにかく自分にできることをやろうと決意したことを覚えている。 同館3階に臨時の入試事務室が設けられることになり、ここから入試の震災対応が本格的に始まった。1月20日の部局長会議で試験日程の延期が決定され、入試事務室では、その周知やすでに出願した人たちの日程変更、受験取り消しの手続き等を行った。インターネットが普及する前だったため、新聞広告で日程変更の告知を行った記録も残っている。ひっきりなしに電話がかかってきて、毎晩深夜までその対応に追われ、帰りの車の中で午前零時の時報を聞く毎日が続いた。 また、交通網が寸断されていたため、東は関西大学天六校舎を、西は神戸学院大学の校舎をお借りすることになった。本当に有り難かった。受験者の住所から試験地を割り当て、受験票を送った。四国の受験者には神戸学院大学を割り当てたが、フェリーで大阪に行く方が便利との受験生からの指摘を受け、急遽割り当て方を変えるといったこともあった。2月21日から27日にかけて、変更した日程で入試を実施した。いろいろなことが起きたが、監督者をはじめ関係者の柔軟な対応によって試験自体は混乱なく終え、2,455人の入学者を迎えることができた。がむしゃらに入試実施に取り組んでいた時にはあまり実感が沸かなかったが、今思えば、壊滅的な被害を受けた大学に出願する多くの受験生がいてくれたことは、奇跡のような出来事だったと思う。
あれから30年、震災の爪痕など微塵も感じることのないような、多くの学生で賑わうキャンパスで、震災記念碑は復興成ったキャンパスを見守ってくれている。この日常が当たり前ではないのだということを静かに伝え続けてくれているかのように。実際に体験した教職員が少なくなっていくなか、これからも「常ニ備ヘヨ」の教えの大切さを忘れないようにしていただきたいと切に願う。
2025年1月
