阪神・淡路大震災を耐え抜いた甲南大学図書館の建物は、1978年10月に竣工した。翌年の4月に新任職員として図書館に配属された時、この建物が他の図書館建築と大きく違う点について説明を受けた。書庫は通常、図書の重さや資料の日焼けを考慮して、地下に作られることが多いのだが、甲南の場合は3-4階に配置していること。それは1938年(昭和13年)7月に神戸市及び阪神地区で発生した「阪神大水害」で、本学も大きな被害をうけたことを考慮したものだという。煉瓦とガラスとコンクリートのおしゃれな外観や美しい家具に気を取られていたが、建物への信頼感が加わった。
1984年5月30日、開館間もない午前9時39分頃、山崎断層を震源とする最大震度4の地震が発生した。神戸市は震度3と記録されているが、それまであまり地震を経験したことのない阪神間在住者には、強く印象に残る地震であった。その瞬間、1階のカウンターにいた職員が、目の前の書架が揺れて、傾いて、戻ったのを目撃している。向こうに見える窓の縦枠と角度を成すほど書架が傾いたのが、はっきり見えたという。それが大きな危機感に繋がらないまま月日が流れ、あの日を迎えた。
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災は、本学のキャンパスにも大きな被害を及ぼした。図書館の建物は持ちこたえたものの、開架室の書架は倒壊して、散乱した図書の上に折り重なった。書庫の書架本体に被害はなかったが、配架されていた図書は落下して山を成した。地震発生後、初めて出勤して1階の開架閲覧室の無残な光景を見た時、1984年の揺れる閲覧室の記憶と交錯して、開館時間中の震災でなかったことに大きく安堵した。図書館の被害状況の詳細については、『図書館年鑑』(日本図書館協会)1996年版に報告されている記事を参照いただきたい。
学内の被災状況についても他の記事に譲るが、それ以上の被害を見ながら生活している被災地の人間として、キャンパスの被害に心を痛めてばかりはいられなかった。あの時はただ、自分の目の前の復旧作業をコツコツと続けるしかなかった。
私が担当した復旧作業は、書庫の落下図書の片付けだった。書庫に上がると、床は落下した図書で埋め尽くされており、床面が見えるのはエレベータと階段の前のみ。「あの列を担当してください」と言われて愕然とした。担当する列に向かって、腰近くまで積もった図書をかき分け、道を作りながら進んで行く。たどり着いた先には、書架の間に胸の高さにまで積もった図書の山。どういう手順で作業を行ったのかはもう覚えていないが、窓のない書庫で毎日毎日、図書を拾っては書架に戻し続けた。余震が続くとはいえ、頑丈な建物の中で、真冬の外気にさらされずに復旧作業ができたのは、ほんとうに恵まれていたと思う。
いち早く動き出した阪神電車で青木まで行き、青木から大学まで、ひたすら山に向かって歩く日々が続いた。大学まで急いでも30分かかる。途中で通過する摂津本山駅の南側は人気がなく、ビルというビルが様々な角度で傾いて、SF映画に出てくる近未来の廃墟のような光景だった。十二間道路をまたぐ阪急電車の高架には、長い間車両が止まったままになっていた。
まだまだインフラが復旧していないにもかかわらず、被災地の住人たちは明るく作業を続けていた。暗く落ち込んでいてもしょうがないと、開き直っていたのかもしれない。通勤でよく歩いて、身体を動かす作業をするのが功を奏したのか、みんなお腹の調子がよかった。暗い顔をしていたのは、被災地の外から通勤している人たちだった。大阪からの通勤電車が武庫川を越えた途端、明確に被害状況が深刻になり、車中の雰囲気もサッと変わったという。そんな環境の落差を毎日行き来するのは、思うほど楽なことではなかっただろう。
ひと月余り図書を拾い続けても、まだ終わりは見えなかったが、3月6日に担当業務である購入図書の受入れ業務が再開され、一足早く日常業務に戻った。それから大学が日常を取り戻すまで、どれくらい時間を要しただろう。当時の断片的な記憶が、とりとめもなく甦ってきた。
入学試験実施のため梅田に出たら、リュックサックにパンツ姿の「被災者ルック」は明らかに周りから浮いていて、被害のない日常が当たり前に存在することに驚いた。
5号館が建つ前のまだ広かったグラウンドに、3階建ての仮設校舎が、びっちりと立ち並んだ。壁面を何本もの配管が覆うさまは、3月にサリン事件を起こして捜索を受けたオウム真理教の施設(サティアン)を連想させた。試験監督で教室に入ったら、隣の棟の、そのまた向こうの棟にある教室の監督者と目が合った。
他の大学図書館からの協力により学生の図書利用が確保できたり、他大学から入学試験の場所を提供していただいたり、図書館職員には日本図書館協会から個人宛の義援金をいただいたりと、ほんとうに多くの支援に支えていただいた。当時いただいた多くのご支援に、30年の時を超え、あらためてお礼申し上げたい。
感謝することしかできなかったあの頃だったが、一つだけ感謝された記憶がある。自転車で通勤していた義兄が、瓦礫の釘でパンクして困っていると、2号線沿いで自転車修理のボランティアをしていた甲南大学の学生たちが修理してくれたという。「ほんまに助かったんや。ありがとう」と、代わりにお礼を言われた。彼らだけでなく、あの手狭な仮設校舎で過ごしながら、ボランティア活動を行っていた学生たちがいたことを、記録に残しておきたいと思う。
震災の発生した年の10月に、神戸大学附属図書館が「震災文庫」を公開した。日常業務が戻った4月頃から、今回の震災に関する資料を閲覧できるところはないかという問い合わせを受け始め、それをきっかけに震災資料の収集を開始したという。規模も体制も違うけれど、同じ大学図書館として私たちにできることはないのだろうか。日常に紛れつつも、もやもやとその思いは続いていた。震災から4年たった1999年、図書館ホームページの作成を担当した際に、ささやかではあるが「震災の記録」のページを追加した。その翌年、配置転換で図書館を離れた。
このたび図書館がデジタルアーカイブを立ち上げられると知り、拙文を寄稿させていただいた。21年間図書館にお世話になった職員として、ホームページに託した小さな思いが、こんな大きなプロジェクトにつながったことに、勝手ながら感謝している。
2025年1月


