甲南学園創立者 平生釟三郎の生涯

其の1 おいたち
甲南学園の創立者平生釟三郎は、慶応2(1866)年5月22日美濃の国加納藩士田中時言の三男として、現在の岐阜市加納の地に生まれた。10人の子女をかかえた時言は、売り食いをしながら、加納の特産である傘の骨を削り、庭に野菜や穀類を作って、辛うじて生計をささえた。時言は厳格な人であった。この貧乏生活の中でも、子供たちには容赦なくきびしい仕付けを施した。彼は厳格な父から武士かたぎを受け継ぎ、また潔癖なほどの正義感を植えつけられたのである。
其の2 勉強時代

東京外国語学校時代(中段左から4人目)

釟三郎は加納小学校を優等で卒業し、岐阜中学校に入学した。ここでも成績抜群のために、6か月で2年次のクラスに編入された。しかし月謝50銭にも事欠いたので、中学を退学して上京し、自活の道を立てることにした。
向学心に富んだ釟三郎は、新聞紙上に東京外国語学校が給費生を募集しているのを見つけ、明治14(1881)年厳しい入学試験を経て、そのロシア語科に入学した。なによりも官費で勉強できることがありがたかったのである。ところがあと1年で卒業という4年生の時、外国語学校は東京商業学校に合併され、その中の語学部となり、その後閉鎖されて、ロシア語科の学生は除籍と決まった。釟三郎は、やむなく東京商業学校の正規の課程に再入学した。しかしたちまち学資に行き詰まった。もう官費生ではなかったからである。が、丁度その時、岐阜の裁判所の判事補平生忠辰が、ひとり娘佳子の将来の夫として釟三郎を養子に望んだので、釟三郎は、忠辰の好意を受け入れて、平生家に入ることとなった。また矢野二郎校長の尽力により、月額5円の政府の奨学金を受けることになったので、彼はこれに平生家からの若干の仕送りを合わせて、豊かでないまでも学生生活を続けることができた。明治20(1887)年、東京商業学校は高等商業学校(後の東京高等商業学校、現在の一橋大学)となり、学生たちの間には、将来の日本の経済界をになう意気込みと自覚とがみなぎった。そこで釟三郎は、一段と学問に励んで、常に首席あるいは2番という優秀な成績を収めた。こうして明治23(1890)年高等商業学校第2回卒業生となった彼は、ひとまず母校の助教諭に残ることになったのである。時に24歳。苦労の多い学生生活であった。
其の3 社会への第一歩

仁川海関時代(後列右から3人目)

明治23(1890)年釟三郎は、卒業と同時に結婚したが、翌年、矢野校長の推薦で、韓国の仁川海関(税関)に赴任することになった。韓国人は税関業務に馴れていないために、外国人を雇っていたのである。当時日本商人の中には、関税をごまかそうとする者もあったが、責任感の強い釟三郎は、韓国の立場に立って、きびしくこれを摘発した。
明治26(1893)年、彼は矢野校長から日本に呼び戻され、兵庫県立神戸商業学校(現在の兵庫県立神戸商業高等学校)の校長に就任した。同校は創立後15~16年を経ていたが、校紀が乱れ、県会で廃校が決議されていた。しかし知事の周布公平がこれを惜しんで、1年の猶予を求め、大改革に当たるべき校長の人選を矢野に依頼した結果、釟三郎に白羽の矢が立ったのである。27歳の若い校長は、頑固な県会を説得し、今までの倍近くの予算を承認させて、再建に取りかかった。彼はまたたく間に教職員・生徒の心をつかみ、わずか1年でみごとに校紀を正すことができた。
其の4 東京海上火災保険時代

東京海上ロンドン支店時代(前列左端)

明治27(1894)年、矢野は再び釟三郎に人生の転機をもたらした。すでに高商校長をやめていた矢野は、彼を東京海上火災保険株式会社の総支配人益田克徳に紹介し、東京における筆頭書記に推薦したのである。東京海上では、筆頭書記の各務謙吉がロンドンに出張することになったので、その後任を捜していたのであった。
懇請された釟三郎は、ついに財界入りを決意した。当時の東京海上は、競争会社の出現により、積極的に事業を推進しなければならぬ時が来ていた。釟三郎はそのための人材として着目されたのである。東京海上の営業状態は、当時順調でなく、明治30(1897)年には、営業停止か解散かの瀬戸際まで追い詰められていたが、各務はロンドンで業務整理と不振打開に没頭し、釟三郎は不振の新設大阪支店の支店長を引き受けた。各務が帰国する時には、釟三郎がロンドンに渡り、その留守を預かった。明治32(1899)年東京海上は、この2人に営業方針一切を委任、釟三郎は大正6(1917)年に常務取締役となった。各務と平生は、終始協力して東京海上を完全に立ち直らせ、日本の代表的な保険会社に発展させたのである。
釟三郎は大正14(1925)年、数え年60歳の時、誕生日を迎える1か月前に、自ら東京海上の常務取締役を辞任した。釟三郎の志は、より多く教育や社会的な事業に向かっていた。
其の5 甲南学園の創立および拾芳会

第1回甲南中学校入学式

拾芳会

東京海上在職中から、釟三郎の社会奉仕の熱意は強かった。なによりも彼は愛国者であった。彼の目ざすところは、欧米先進国に劣らぬ民主的社会を日本に実現することであった。そのためには、社会倫理が向上し、科学文明が発達しなければならない。ところが日本の現実を見ると、国民の多くは、目先の利益のみを追求し、浅はかな物欲主義・出世主義にしがみ付いている。これでは日本は良くならない。
そこで彼が到達した考えは、正しい教育によって、すぐれた人間を作らなければならぬということだった。その教育は、決して単なる知識の詰め込みであってはならない。第1に立派な人格教育を施さねばならぬ。第2に健康な肉体の持ち主を作らなければならぬ。第3に人間はそれぞれ天賦の才能を持っているから、画一的な教育を避け、個性を尊重する方法を採らなければならぬ。こうした理想的な教育機関を作りたいという念願が、年とともに彼の内部に募ってきたのである。
明治43(1910)年、年来の希望を実現する機会が到来した。甲南小学校設立の計画である。釟三郎と同じ住吉に住む弘世助太郎(日本生命の社長)が、住吉に新しく移ってきた財界人や、土地の有志の子女のために小学校を建設したいから、協力してもらいたいというのである。釟三郎は喜んで、さっそくこの申し出を承諾した。
しかるに明治44(1911)年認可を受け、幼稚園から発足した甲南小学校はその経営が思うようにゆかず、財政難から、多くの発起人や理事が手を引く始末となった。そのため、当初金銭上の世話は見ないという約束で理事を引き受けたはずの釟三郎が、いきおい中心となって、維持を図らなければならぬ羽目になった。しかし彼は、これこそ年来の理想を実現する好機会と考え、甲南小学校の経営、ついで甲南中学校の設立に全力を傾注しはじめるのである。
一方、明治45(1912)年釟三郎は、国家に有為な青年の育成のために私財を投ずることにした。前途有望な青年で、大学に進みたいが学資に恵まれぬ若者に対して、学費を給与するとともに、自らこれを訓育指導した。毎年選ばれる者4~5名を数え、大正8(1919)年に平生はこのグループを「拾芳会(しゅうほうかい)」と名付けた。平生の擁護と訓育指導により、大学・専門学校に進んだ者は160余名に達し、その中から学界・実業界その他各分野に一流の人物が輩出した。
其の6 甲南病院の設立と川崎造船所の再建

甲南病院

財界の第一線を引退した釟三郎は、甲南学園に力を注いだのはもとよりとして、直ちに甲南病院の設立に取りかかった。けだし彼の理想は、富裕な患者からは、全治した時、治療費以外、相当の謝礼をもらう一方、貧しい患者には、実費あるいは無料で治療し、これによって貧者にも名医にかかれる機会を与えようとするものであった。しかしこの計画は、難事業で、財閥・富豪に根気よく寄付を懇願すると同時に、すぐれた医師を集めるのにも一方ならぬ苦労を要し、昭和9(1934)年に至り、ようやく住吉鴨子ケ原の現在地に開院の運びとなったのである。この病院では患者第一主義に徹するという当時としては画期的な新方針が採用された。特に完全看護・完全給食、それに伴う看護婦の地位の尊重などの点では、東京の聖路加病院と並び称せられた。拾芳会出身の医師たちも、多くこの病院の設立に協力するところがあった。
ついで釟三郎は、破産に瀕して強制和議を申し立てていた川崎造船所の整理委員を命ぜられ、昭和8(1933)年その社長就任を余儀なくされた。彼は報酬を辞退して、鋭意その復興に務め、2年後には再建に成功した。その間、付属職工学校の設立、共済組合の組織、付属川崎病院の新設など、特に従業員の教育・福祉対策に釟三郎らしい新機軸を示した。
其の7 文部大臣就任と国策への協力

1.訪伯経済使節団(ブラジル大統領と共に)
2.文部大臣就任式に向かう
3.勲一等旭日大綬章

なにごとにつけても私心なく、自分を投げ出して行動する釟三郎の社会的信望が増すにつれて、国家もまたしだいに彼を重用せざるを得なくなった。昭和10(1935)年、岡田内閣がブラジルへ経済使節団を派遣した際、彼はその団長に任命された。そして日伯親善に尽くして帰国すると、貴族院議員の席が彼を待ち受けていた。
しかしこのころから日本は、急速に戦争時代に突入してゆく。昭和11(1936)年のいわゆる二・二六事件のあとに広田内閣が生まれると、釟三郎は文部大臣に迎えられた。在任中、特に彼の提案した義務教育延長案(6年から8年へ)が閣議で承認されたことは注目に値するが、この案は、情勢の変化のため、ついに実行に移されるには至らなかった。その後近衛第1次内閣の時にも、商工大臣就任を要請されたが、彼は文部大臣以外は受けるつもりはないと言って、辞退した。
昭和12(1937)年、彼は商工省から推されて日本製鉄株式会社の取締役会長になり、昭和13~14年には陸軍省から北支経済委員会委員長を依頼された。また、鉄鋼界の統制の結果、鉄鋼連盟会長に就任し、大日本産業報国会が成立するや、その会長に推されるという風に、戦時体制化において、なにか新しい組織が作られると、必ず彼は指導的な役割を負わされたのである。かつては軍国主義を非難していた釟三郎であったが、今や国家存亡の非常時局に際会しては、潔く自己に課せられた使命を尽くすのを、武士の覚悟としたのであろう。
昭和17(1942)年、釟三郎は、多年の国家への貢献によって、勲一等旭日大綬章を受章、翌年には当時最高の栄誉とされた枢密顧問官に親任された。さすがに喜寿を越えて病気がちになった彼は、それから2年、終戦の年の昭和20(1945)年11月27日、東京目黒の仮住居において、79歳と7か月で老衰のため死去した。