廣川晶輝先生(文学部)「活きた勉強―本の力―」

☆新入生向けの図書案内

著者: 井上靖
タイトル: 天平の甍 ; しろばんば (新潮現代文学 ; 28)
出版者: 新潮社
出版年: 1979
配置場所: 図書館2階開架一般
請求記号: 918.6/28/298

井上靖氏の歴史小説の名作『天平の甍(いらか)』を読んだことがあるでしょうか?
実は以前、学生を指導している中でこの本を例に出して説明したのですが、その学生の頭の上には大きな「?」マークが立っていました。その時のわたしの気持は、「えっ、知らないの?これが現状か……。」でした。名作を薦めるのは大変気が引けますが、こうした現状を考えて、あえて薦めます。
『天平の甍』の内容をごく簡単に書きますね。遣唐使で唐に渡った日本の僧侶が、日本に戒律を伝えるために唐の高僧鑑真和上を招きます。その行動は多くの苦難に満ちていました。心が折れてしまう者、初志を貫徹した者、それぞれの心理が淡々とした筆致でつづられています。歴史小説の名作です。
ところで、この文章で私が伝えたいのは、名作の内容ではなく、いわば「本の力」についてです。『天平の甍』の末尾近くには次のような記述があります。
 唐招提寺の主な建物が大体落成したのは三年八月であった。普照は唐招提寺の境内へはいると、その度にいつも金堂の屋根を仰いだ。そこの大棟の両端に自分が差し出した唐様の鴟尾の形がそのまま使われてあったからである。
「三年」とは、天平宝字3 年(西暦759 年)のことです。上記引用文中で、鑑真和上を日本に招く大業を果たした僧侶普照が鴟尾(しび)を差し出したというのは、もちろん、井上靖氏のフィクションです。ですが、ここに「本の力」を見出すことができると思います。
あなたが、鑑真和上ゆかりの唐招提寺を訪れるとします。『天平の甍』を読んでいなければ、あなたは金堂の大屋根を仰ぎ見ることは無いでしょう。仰ぎ見ても何も感じないでしょう。しかし、『天平の甍』を読み、上記の引用文に触れていれば、金堂の大屋根の最上部の東西にしっかりと据えられている鴟尾をじっと眺めるはずです。そして、その大きな鴟尾の姿を通して、『天平の甍』に描かれた人々の苦労や苦悩そして喜びを実感できると思います。さらに、1200 年の時を超えて、天平の空気をも感じることができるはずです。
本にはそのような「力」があります。ある土地や故地を訪れる前にその土地にちなむ本を読むことを、皆さんに勧めたいと思います。その土地での感じ方が百倍、いや千倍は違いますよ。これこそ、まさに「活きた勉強」ですね。そのような「活きた勉強」を大学時代にできることはとても幸せなことだと、私は心から思います。さあ、『天平の甍』を読んで、鑑真和上ゆかりの唐招提寺を訪れ、天平の空気を感じて下さい。
甲南大学図書館報 藤棚(Vol.29 2012) より