小川洋子著 『博士の愛した数式』

 

 

知能情報学部 4年生 Bさんからのおすすめ本です。(KONAN ライブラリ サーティフィケイト)

書名 : 博士の愛した数式
著者 : 小川洋子

出版社:新潮社
出版年:2003

『博士の愛した数式』は、記憶が八十分しか持続しない数学者の博士と、家政婦である「私」、そしてその息子との交流を描いた物語である。博士は事故の後遺症により、新しい記憶を保持することができず、常に現在を生き続けている存在である。しかし、その制約の中でも数学への深い愛情と、人に対する誠実さを失っていない点が、本作に静かな温かさを与えている。

物語の中で描かれる数学は、単なる計算や理論ではなく、美しさや秩序を持つ言語として扱われている。完全数や友愛数といった概念は、人と人との関係性を象徴する比喩として機能し、博士の世界観を形作っている。数学が苦手な読者であっても、数式が持つ意味や美しさを感覚的に理解できるよう工夫されており、学問と感情が対立するものではないことが自然に伝わってくる。

本作で特に印象的なのは、「記憶」と「関係性」の捉え方である。一般的には、記憶の継続こそが人間関係の基盤であると考えられがちだが、本作ではその前提が静かに問い直される。博士は毎回「私」や息子と初対面のように接するが、その態度には常に敬意と優しさがある。過去を共有できなくとも、相手を大切に思う姿勢があれば、関係は成立するのだという考え方が、物語全体を通して示されている。

さらに、本作は知性とは何かという問いも内包している。博士は日常生活では多くの制約を受けているが、数学の世界においては自由であり、その思考は非常に純粋である。記憶障害を「欠落」としてではなく、一つの在り方として描く姿勢は、読む者に価値観の転換を促す。簡潔で静かな文章の中に、人間の尊厳やつながりの本質が込められており、読み終えた後には、他者と向き合う姿勢について深く考えさせられた。穏やかでありながら、確かな強さを持つ作品である。