アレックス・バナヤン著,大田黒奉之訳『嫌われる勇気』

法学部1年 向井綾香さん(「基礎演習(濱谷)」リサーチペーパーより)

本の内容
 フロイト・ユングと並び「心理学の3台巨頭」と呼ばれるアルフレッド・アドラーの思想が、ある青年と哲人(哲学者)の対話を通して説明されていく。登場人物は、アドラーの思想を支持する哲人と、アドラーの思想には批判的で自分を好きになれない青年の2人のみである。哲人が悩める青年にアドラーの思想を交えて次々に解決策を提示するも、青年はそれに真っ向から反論する、という形でどのテーマでも深い議論が繰り広げられていく。アドラーの心理学というのは、自分を変えるための心理学である。例えば、人は過去の存在に突き動かされているのではないとして「トラウマは存在しない」と語ったり、「すべての悩みは対人関係である」と断言し、悩みは内面からくるものではないと主張したりする。そして、一見するとシンプルな言葉でまとめられているが、すぐには受け入れ難いものが多い。これらのアドラーの思想は、過去に原因を求めるフロイトの心理学とは真逆の考え方であり、世間一般に見ても、当時は万人に受け入れられるような思想ではなかった。
 自身が特に印象的に感じたのは、少年が哲人への反論に夢中になっているシーンである。序盤では落ち着いた態度で哲人に臨む様子であったが、会話が進んでいくにつれて少年は必死になって哲人の話を否定しようとする。言葉遣いも荒々しくなり、その時の彼は、まるで友達と激しい言い合いをしているかのようだった。しかし、目上も目下も関係なく、真正面から議論に挑む彼の姿はとてもかっこよく思えた。また、語り合うことに年齢は関係ないと感じさせられた場面でもあった。

2人の作者の出会い
 本書の作者は、岸見一郎(きしみ いちろう)と古賀史健(こが ふみたけ)という2人の人物である。岸見一郎は、哲学者でアドラー心理学を研究しており、多くの青年のカウンセリングも行っていた。また、本書の原案を担当した。大学生の頃は先生の自宅へたびたび押しかけて議論を持ち掛けていたという。そして20代の終わりにアドラーの心理学と出会う。彼の訳書として、アドラーの『個人心理学講義』(2012年出版)『人はなぜ神経症になるのか』(2014年出版)、著書は『アドラー心理学入門』(1999年出版)がある。一方、古賀史健は、株式会社バトンズ(書籍のライティング業務を行う会社)の代表であり、ライターをしている。彼は聞き書きスタイルの執筆を専門とし、インタビュー原稿を書いている。ノンフィクションやビジネス書で数多くのベストセラーを手掛ける。
 古賀氏は以前からフロイト派やユング派に引っ掛かりを感じていた。その時に、岸見氏の『アドラー心理学入門』と出会い衝撃を受ける。その後、仕事で岸見氏のもとへ取材をしに行ったことをきっかけに2人は出会い、共に本書の出版へ動き始める。古賀氏はアドラーの思想に対する読者の疑問、反発、受け入れがたい言説、理解できない提言をを丁寧に拾い上げるため、ギリシア哲学の古典的手法である対話篇形式を採用した。そのため、本の中に出てくる青年には最初から最後まで読者の気持ちを代弁させ、批判的立場をとらせている。岸見氏は古賀氏と13歳の年の差があるにもかかわらず、友人のように接していたという。

本書出版の背景
 本書が出版されたのは、2013年であった。当時はフロイトやユングと比べて、アドラーという名前は心理学を学ぶ一部の人にしか知られていなかった。また、アドラーの心理学はフロイトとユングとは考え方が反対の立場にあった。しかし、読者がこれまでの常識を覆す言葉の数々や斬新な考え方に衝撃を受けたことで、世間からの反響を大きく受けベストセラーとなった。現在でもベストセラーとして注目を浴び続けているのは、本書の対人関係を主にしたテーマにおいて、グローバル化を求められる社会の中での生活や、ソーシャルメディアなどの普及により人付き合いの難しさが徐々に増してきているという社会的な背景があるからだと考えられる。
 人生を歩む中で対人関係は欠かせないものであるが、現代では相手との距離のとり方に悩み、日々を過ごす人々が多くいるのだろう。アドラーの心理学は、人間関係の悩みを持つ我々にとって幸せに生きるためのちょっとした支えになってくれたり、人間関係で深く考えすぎることをやめさせてくれたりする心理学であると感じた。

終わりに
 世界や周囲で新しい道を開拓していく人々がいる一方で、どうせ自分は何もできない、周りより劣っている、幸せになれないと感じている人々も少なくはないだろう。けれども、哲人の説くアドラーの教えの存在を知ることで自身のもつ感情、劣等感、トラウマなどを自分の人生が上手くいかないことを言い訳の道具として使っているだけなのかもしれない、という考え方に気づかされる。そのように考えて過去にとらわれず、今この瞬間だけを見ていけば、今まで避けてきたことに臨んでみようという勇気が生まれてくるような気がしないだろうか。はじめは飲み込みがたいアドラーの心理学かもしれないが、解釈と視点を変えることで自分を変える第一歩へとつながる。そのように感じさせられた本であった。
 また、本書は日頃持っている劣等感を払拭してくれたり、対人関係との向き合い方を示唆してくれて気持ちを楽にしてくれる、そんな役割を果たしてくれている。対人関係に限らず、ありきたりな表現ではあるが、物事においても多様な視点で見る大切さが改めて分かり、自身において心に残る印象的な作品であった。今回のこのビブリオバトルとリサーチペーパーの作成は、本を読む機会と新しい考え方に触れる機会を与えてくれた。「嫌われる勇気」は、「心理学の三大巨頭」と言われているのにもかかわらず、メジャーなフロイトやユングに比べて圧倒的に知名度がなかったアドラーの心理学を、多くの人々のもとへ届けたきっかけになった本の中の1冊であろう。