中島俊郎先生(文学部)「乱読のすすめ」

☆新入生向けの図書案内 
 読書には読者の数だけ読み方があるでしょう。それでも誤解を恐れずにいえば、読書の要諦は乱読につきると思います。乱読とは好きなものを、脈絡なく手当たり次第に読むことです。日常生活が細分化され、学問の専門化がいきとどいている現代こそ、ひとつの全体像を把握するためには乱読という読書法が必要なのです。全体の見通しなくして、個は何も見えてきませんから。
 乱読の強みは読む主体である読み手が中心にいることです。学問、研究の専門化が陥りやすい弊害は、ひとり言に終始して、やがてくり言に堕していく危険をはらんでいます。つまり、精神の自由が硬直してしまうのです。精神を活性化させるためにはつねに対話を交わす精神の開放を忘れてはなりません。
 読書という、読者と作者の対話の場で相互に作用し合うことなくして、知の新しい地平が拓けるはずがありません。読者とは、作者から何かを教えてもらう受け身ではなく、自ら意味をつむぎ出していく主体なのです。そもそも読書は作者と読者が意味を織りなす共同作業なのですから。
 乱読は統一性、一貫性に欠けて自己中心的で閉鎖的な世界にこもりがちであるという批判をよく受けます。たしかにそうした欠点があるでしょう。だが、そうした短所をうわまわる長所が乱読にはあります。さらに自己の好みに応じて気の向くものだけを猟歩していくから断片的なものしか身につかないととがめられますが、こうした断片で終わる知識の集積はあなどれないものがあります。断片など耳学問に過ぎないと否定されてしまいますが、耳学問は意外と頭を活性化させるのです。知らないことを聞いた時に覚える新鮮な驚きを思い出して下さい。耳学問は頭脳内で連鎖作用を起こします。この連鎖作用によって自分が追究している全体像が徐々に結晶していくのです。
 読書とは元来、自分のなかに未知を読み込む営為なのですから、自己本位で読みすすむしかない。だから未知を読むのは自己を読み込むことと同意なのです。乱読が創造的読書になるゆえんです。
甲南大学図書館報 藤棚(Vol.30 2013) より