松岡圭祐著 『ミッキーマウスの憂鬱 』

 

 

知能情報学部 4年生 Iさんからのおすすめ本です。(KONAN ライブラリ サーティフィケイト)

書名 : ミッキーマウスの憂鬱
著者 : 松岡圭祐

出版社:新潮社
出版年:2008

本作は、東京ディズニーランドをモデルにした巨大テーマパークの裏側を舞台に、若者の成長と
労働の現実を描いた小説である。夢と非日常を提供するこの場所は、外から見るときらびやかで
完璧な空間に見えるが、その裏では無数の人間が厳密なルールと役割に従って働いている。その
夢を支える現実に焦点を当てる点で、きわめて現代的な意味を持つ作品である。

主人公は、新人キャストとしてテーマパークに入り、戸惑いと緊張の中で日々を過ごす。笑顔を
絶やさず、決められた動きを守り、常に「夢の世界」の一部として振る舞わなければならない。
そこでは、個人の感情よりも役割が優先される。失敗は許されず、マニュアル通りに動くことが
求められる。その環境は、ときに息苦しく、タイトルにある憂鬱を生み出すと考えられる。

しかし物語が進むにつれ、主人公は次第に、自分の仕事が誰かの楽しさや感動につながっている
ことを実感していく。子どもたちの笑顔、来園者の驚きや喜びが、厳しい労働の意味を支えるよ
うになる。松岡圭祐は、夢を虚構として切り捨てるのではなく、人が作り上げる価値あるものとし
て描いている。

この小説の優れている点は、労働の厳しさと誇りを同時に描いていることだ。テーマパークは単
なる娯楽施設ではなく、多くの人の真剣な努力の上に成り立つ場所である。主人公がその一部と
して成長していく過程は、現代の若者が社会に参加していく姿と重なる。

ミッキーマウスの憂鬱は、夢の国を舞台にしながら、きわめて現実的な働くことの意味を問いか
ける作品である。読後、読者はテーマパークを見る目だけでなく、自分自身の仕事や役割につい
ても、少し違った角度から考えるようになる作品だ。

よしもとばなな著 『ハゴロモ 』

 

 

知能情報学部 4年生 Iさんからのおすすめ本です。(KONAN ライブラリ サーティフィケイト)

書名 : ハゴロモ
著者 : よしもとばなな

出版社:新潮社
出版年:2006

ハゴロモは、現実と幻想、生と死の間を静かに漂う物語である。よしもとばななの小説には一貫
して「この世界にうまくなじめない人々」が登場するが、本作もまた、どこか現実から少し浮い
た存在たちが、互いに寄り添いながら生きる姿を描いている。物語は大きな事件や劇的な展開に
頼らず、登場人物の内面の動きや関係性の微妙な変化によって進んでいく。その穏やかな語り口
が、かえって読者の感情を深く揺らす。

タイトルの「ハゴロモ」は、天女がこの世と異界を行き来するための羽衣を連想させる。それはこの作品に登場する人々の在り方を象徴しているようにも見える。彼らは皆、喪失や孤独を抱えながらも、この世界と完全には結びつかず、どこか別の場所に心の拠り所を持っている。その距離感こそが、現代人の心情をよく映している。現実に適応することが苦しく、しかし誰かとつながらずにはいられないというその矛盾がやさしく描かれている。

よしもとばななの文章は、感情を説明するのではなく、読者に感じさせることを重視している。簡潔で透明感のある文体によって、悲しみや愛しさが直接心に流れ込んでくる。登場人物の心の痛みは決して大げさに描かれないが、その静けさがかえって深い共感を生む。読者は物語を追ううちに、自分自身の過去の記憶や失ったものと向き合うことになるだろう。

ハゴロモは癒しの物語であると同時に、喪失を抱えたまま生きていくことの肯定でもある。すべてが回復するわけではないが、それでも人は人とつながることで少しずつ前に進める。その静かな希望が、読後に長く余韻として残る一冊である。

太宰治著 『走れメロス』

 

 

知能情報学部 3年生 Nさんからのおすすめ本です。(KONAN ライブラリ サーティフィケイト)

書名 : 走れメロス
著者 : 太宰治著

出版社:新潮社
出版年:1940

『走れメロス』は、友情と信頼を主題としながら、人間の弱さと強さを鋭く描いた太宰治の代表作である。暴君ディオニスに死刑を宣告されたメロスが、妹の結婚式を理由に三日の猶予を得る代わりに、親友セリヌンティウスを人質として差し出すという物語は、極限状況における人間の選択と心理を鮮明に浮かび上がらせている。

本作で特に注目すべき点は、メロスが決して理想的な英雄として描かれていないことである。彼は道中で疲労し、諦めや自己正当化に心を支配され、信頼を裏切る可能性を何度も意識する。その姿は、人間が極限に置かれたときに見せる弱さを率直に表している。しかし最終的にメロスは走ることをやめない。疑念を抱えながらも前へ進む姿は、信頼に応えようとする意志の強さを象徴している。

一方で、セリヌンティウスの存在は物語の精神的支柱となっている。彼は一切の疑念を口にせず、沈黙のまま処刑台に立つ。その姿は、信頼とは相手を監視したり証明を求めたりするものではなく、相手に委ねる覚悟であることを示している。セリヌンティウスの無言の信頼こそが、メロスを再び立ち上がらせる最大の力となったのである。

さらに注目すべきは、王ディオニスの変化である。人を信じることで裏切られてきた彼は、他者を信用できず孤独に支配者として生きてきた。しかし二人の友情を目の当たりにし、その価値を認めることで改心する。この結末は、人は信頼によって変わり得る存在であるという希望を示している。

『走れメロス』は、友情の美しさを描いた作品であると同時に、信頼することの危うさと尊さを問いかける作品である。現代社会においても、人間関係の本質を考える上で強い意味を持つ、普遍性の高い文学作品だと言える。

瀬尾まいこ著 『そして、バトンは渡された』

 

 

知能情報学部 3年生 Nさんからのおすすめ本です。(KONAN ライブラリ サーティフィケイト)

書名 : そして、バトンは渡された
著者 : 瀬尾まいこ著

出版社:文藝春秋
出版年:2018

『そして、バトンは渡された』は、「家族とは何か」という普遍的な問いを、血縁という枠組みを超えて描いた小説である。主人公の森宮優子は、幼くして実母を亡くし、その後も父や義理の親との別れと出会いを繰り返しながら成長していく。一見すると不安定で不幸な家庭環境に思えるが、物語を通して浮かび上がるのは、常に誰かが優子を思い、次の人へと彼女を託してきたという事実である。この「バトン」という比喩が、本作の中心的なテーマとなっている。

本作の大きな特徴は、登場する親たちが決して理想化されていない点にある。経済的に余裕がなく、生活に苦労する場面や、不器用で感情をうまく表現できない姿も描かれる。しかし、それでも彼らは優子の幸せを第一に考え、自分なりの方法で愛情を注いでいる。完璧ではないからこそ、その行動一つ一つに現実味があり、読者は登場人物を身近な存在として感じることができる。血のつながりではなく、日々の選択と責任ある行動こそが「親であること」を成立させているのだと強く感じさせられる。

また、主人公である優子の価値観も印象的である。彼女は自身の生い立ちを不幸として語らず、むしろ多くの人から受け取ってきた善意や思いやりを自然に受け止めている。その姿勢は、環境そのものよりも、それをどう捉えるかが人生を大きく左右することを示している。人は欠けているものに目を向けがちだが、本作は「すでに受け取っているもの」に気づくことの大切さを静かに教えてくれる。

現代社会では、核家族化や多様な家庭形態の広がりにより、「家族の正解」が見えにくくなっている。本作はその中で、家族とは制度や血縁ではなく、思いを受け渡す関係性そのものだと提示している。温かさと現実性を併せ持つこの作品は、家族観を再考する上で大きな示唆を与える一冊である。

村上春樹著 『ノルウェイの森』

 

 

知能情報学部 4年生 本田 昇太郎さんからのおすすめ本です。(KONAN ライブラリ サーティフィケイト)

書名 : ノルウェイの森
著者 : 村上春樹著

出版社:講談社
出版年:1987

しばしば青春小説や恋愛小説として語られるが、読み進めるほどにそれらの枠には収まらない作品だと感じる。物語の中心にあるのは恋愛の成就でも成長の達成でもなく、「人は喪失とともにどのように生き続けてしまうのか」という、答えの出ない問いである。

物語は、ワタナベがキズキの死を回想するところから始まる。この死は、理由も説明も与えられないまま物語に置かれている。だがそれは不親切というより、現実に即した描き方だ。実際の喪失もまた、納得できる理由や意味を伴わないことがほとんどで、人は理解できないまま時間の流れに取り残される。ワタナベの淡々とした語り口は冷たさではなく、感情をどう扱えばいいのか分からない人間の誠実さを感じさせる。

直子は、その喪失を誰よりも深く抱え込んだ存在として描かれる。彼女の壊れやすさは痛々しいが、決して怠惰や弱さとして裁かれてはいない。むしろ、心が壊れてしまうことも人間の一つの現実なのだという、突き放しでも美化でもない視線がある。直子の選択は悲劇的だが、そこには「正しく生きられなかった人」への断罪はない。

一方で緑は、現実的で生命力にあふれた人物として登場する。彼女の明るさや率直さは物語に風通しの良さを与えるが、それは無条件の強さではない。彼女もまた孤独を抱え、必死に生にしがみついている存在だ。直子と緑は単なる対照ではなく、どちらも「生き方の可能性」であり、優劣をつけられるものではない。

ワタナベ自身は優しく、誠実であろうとするが、誰かを救えるほど強い人間ではない。その曖昧さや中途半端さは批判されがちだが、他者の人生を完全に引き受けられないという点で、極めて現実的な存在だと思う。彼は選び続けるが、選んだ結果に確信を持つことはできない。その姿は、読者自身の姿とも重なって見える。

『ノルウェイの森』は、喪失を乗り越える物語ではない。喪失を抱えたまま、それでも生きてしまう人間の姿を描いた物語だ。だからこそ読む年齢や状況によって受け取る印象が変わり、人生の節目ごとに思い出される。読み終えたあとに残るのは救いではなく、静かな余韻と、言葉にできない感情の重さである。その不完全さこそが、この作品が長く読み継がれてきた理由なのだと思う。

エントランス展示『”見せる”絵葉書から、”魅せる”絵葉書へ~紡績絵葉書のうつろい~』(経営学部 平野ゼミ実施)

 「近代化」を象徴する事象の一つに、紡績業の機械化があります。日本では1872年(明治5年)に明治政府による「富岡製糸場」の設立に続いて、1882年(明治15年)に渋沢栄一らが「大阪紡績会社(現・東洋紡)」を創業、1887年(明治20年)に「鐘淵紡績(現・カネボウ)」、1896年(明治29年)「郡是製絲株式會社(現・グンゼ) 」など、紡績企業が各地に次々に創業し、主要な産業にななりました。学生の皆さんもよく知っている企業が多いのではないでしょうか。

 今回のエントランス展示は、近代繊維産業を研究している経営学部の平野ゼミ(平野恭平 経営学部教授・ 現図書館長)の学生さんたちによる、紡績企業が発行した明治後期から大正期の絵葉書の展示 『”見せる”絵葉書から、”魅せる”絵葉書へ~紡績絵葉書のうつろい~』です。

 日本では、1900年(明治33年)に絵葉書の使用が認められ、 1904(明治37)年に発行された日露戦争の記念絵葉書をきっかけに、絵葉書がブームになり、名所旧跡、重大ニュース、ブロマイドなど、多様な絵葉書が発行されました。当時の人々の憧れや驚きを写した絵葉書は、現在、重要な歴史史料の一つになっています。

 そんな明治時代に、日本の重要産業であった紡績企業も、次々に自社の工場の絵はがきを発行しました。紡績企業が発行した絵葉書にも当時最先端の印刷技術が使われており、巨大な工場やそこで働く人々の様子が見て取れます。紡績企業の絵葉書は、どのような目的で作成され、どのように使用されたのでしょう。
 その秘密を確かめに、ご来館の際にはぜひお立ち寄りください。

※今回展示している資料は、経営学部・平野恭平教授が所蔵するものです。