甲南人の軌跡Ⅰ/飯島 知明/甲南大学と私 | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

甲南大学と私

飯島 知明

Iijima Tomoaki

1997年 法学部卒

大阪府三島郡島本町
教育委員会勤務

趣味・特技

新聞を読むこと/スポーツすること

好きな⾔葉

「備えよ。」 (平生釟三郎先生)

学⽣時代のクラブ・サークル

体育会ハンドボール部

甲南での4 年間(部活、教職課程、震災、模擬裁判)

 私は、平成5年に法学部に入学しました。入学してすぐ、体育会のハンドボール部に入部しました。ハンドボール部の仲間と過ごした4年間は、あっという間でした。今でも年賀状のやりとりをするなどして、互いに近況報告をしています。また、少し年上の先輩にも、現役時代と同様、可愛がってもらっています。ハンドボール部では、毎日のトレーニングで保久良神社まで急な坂を駆け上がったことや、住吉川を海まで走ったことが印象に残っています。また、関西学生リーグで戦ったこと、定期戦で打倒慶應義塾大学に燃えたこと、そして最終年次に主将を務めたことも特筆すべき思い出です。

 甲南大学では文武両道を成し遂げたいと考え、教員免許の取得に挑戦しました。当時教員免許の取得に必要な法学部以外の授業は、平日の5時限目以降や土曜日に設定されていたので、普段多くの学生で活気に満ち溢れたキャンパスとは違って、落ち着いた雰囲気の校舎(白亜城)が幻想的に見えたことも懐かしい思い出です。忘れもしない平成7年1月17日。この日は後期試験の初日でした。これまでに体験したことのない大きな揺れが阪神地域を襲いました。私は、それでも試験が実施されると考え、電車が不通であったにもかかわらず、原付で大学まで行きました。変わり果てた神戸の街並み、崩れた校舎や運動場の亀裂に言葉を失ったことを思い出します。「お兄さん、こっちや!」という声に反応し、倒壊した建物の下敷きになっている方の救出を手伝ったり、避難所で救援物資の配達を手伝ったりと、何もかもが信じられない状態でした。その日から卒業まで、私は運動場に建設された仮設の校舎で学ぶことになりました。震災の年には他にも世情を不安にするような事件があったので、私は、いかに「あたり前の日常」が大切で尊いものか、そしてあらゆる可能性を考えて事前に備えることが大切であるか(自然災害への備えだけではなく、日常生活においても…)を痛感しました。この震災で亡くなられた方の分まで頑張らなければと思う次第です。

 震災後、丸田隆先生(英米法・法社会学)のゼミ(研究室)に入りました。このゼミの目玉は「模擬陪審裁判」でした。この取り組みを切り口とした、仲間と議論を繰り広げる演習は、まさに現在でいうところの「アクティブ・ラーニング」そのものです。この「模擬陪審裁判」は、「台本なし」という点が大きな魅力でした。検察官役も弁護人役も模擬裁判当日まで互いに手の内を見せずに準備します。当日は一般の方の傍聴やマスコミの取材もあり、華やかで白熱した議論が繰り広げられました。私は、このゼミで論理的に物ごとを考えることの大切さ、そして判断したことを適切に表現することの楽しさや達成感を味わうことができました。今から考えると、日本で「裁判員裁判」が導入される10年以上も前から、「模擬陪審裁判」や「アクティブ・ラーニング」に取り組めたことに幸せを感じています。

アパレル業界から社会科の先生に

 4回生の春から本格的な就職活動が始まりましたが、バブルの残り香も完全に消え、大手銀行や証券会社が倒産するうえに、震災や世情不安もあって、世の中は「就職氷河期」となっていました。私は80社ほどにアプローチし、15社ほど試験や面接をしていただきました。アプローチといっても、当時は官製はがきにびっしり自分の思いと連絡先(自宅の電話番号)を書き、企業からの連絡を待つだけです。1枚清書するのに小1時間はかかります。ボールペン書きなので、途中で失敗したら当然最初からやり直しです。携帯電話が普及していない時代だったので、いつでも連絡がつくように、極力、家にいた記憶があります。

 甲南大学で過ごした4年間で神戸が大好きになり、卒業後も神戸で働きたいという思いが通じてか、神戸に本社がある株式会社ワールドというアパレルメーカーに採用していただきました。阪急電車での通勤途中、車窓に映る岡本の校舎が、震災の被害から少しずつ蘇っていく姿には、私自身励まされました。当時は「猛烈社員」でした。始発で通勤し、終電で帰宅するといった感じでした。出張も多く、日本中を飛び回っていました。不景気だったので、どの業界も営業職は大変だったと思います。

 ある日、岡山へ出張する際、新神戸駅で兵庫県の教員採用試験のポスターを見つけました。震災の経験や大手アパレル企業での経験を教育現場で活かせたらと考え、採用試験(中学校・社会科)に挑戦することにしました。当時は団塊の世代の先生が多く、かつ急速な少子化が進行していたので採用枠も小さかったのですが、無事合格することができました。最初の赴任先は但馬地域の小代中学校(僻地)でした。沢庵和尚や但馬牛のふるさと、残酷マラソンやスキー場で有名な所です。僻地手当の他に、豪雪地帯なので、冬は寒冷地手当もつきました。雪合戦の公式審判員の免許も取得しました。

 次の赴任先は、他府県異動で大阪の門真市内の中学校でした。子どもたちに少しでも学習や社会科に興味を持ってもらおうと、日々の新聞を教材化するNIE(Newspaper In Education)に取り組んだのもこの頃です。その後、大阪教育大学附属池田中学校に赴任しました。毎年、夏休みを利用して大阪地方・高等裁判所へ審理傍聴や法廷体験に生徒を引率し、冬には私が学生時代に経験した「模擬裁判員裁判(台本なし)」に挑戦しました。その取り組みは新聞やテレビで大きく報じられました。また、政経地歴部の顧問として遺跡発掘に出かけたり、「憲法改正の是非」や「原発再稼働の是非」などといった国論を二分するようなテーマについて、校内で議論を深め、他校生と社会討論会を開催するなど、甲南大学で培った経験を基礎に、さまざまな活動を中学校で展開しました。現在は、島本町教育委員会で参事兼指導主事という役職を拝命し、教育行政の一端を担うと同時に、若手の先生の指導に挑戦しています。

これから必要とされる力

 阪急岡本駅の改札を降りた瞬間、鶯の鳴き声と梅の香りがする入学式当日、美しい岡本で始まるキャンパスライフに胸をときめかせたことを、今でも昨日のことのように思い出します。甲南大学の「個性の尊重」を重んじる学風は、まさに甲南人の多種多様性を実現しています。多種多様性はこれからの未来を生きるうえで欠かせない要素です。甲南人の最大の強みは何といっても「総合力」でしょう。学問との出会い、人との出会いを大切にする学風がその基礎にあると考えます。これから社会に出るみなさんにとっては、各方面で活躍する諸先輩方との人脈も大きな武器となるでしょう。私たちは、未知の世界を生きていかなければなりません。たとえば、急激な少子高齢化社会の到来や、AI(人工知能)の台頭はその代表例です。そういった「解の見つけにくい問」に私たちは日々挑み続けなければなりません。そのときに必要とされるのが、「課題を設定する力」であったり、「議論する力」、「判断したことを表現する力」なのです。まさに、この力こそが、甲南大学で学ぶ「総合力」だと私は思います。私はアパレルの営業マンから中学校の社会科の先生になったわけですが、社会科だけ(教科書だけ)を教えているわけではありません。学級担任になれば生徒指導も行います。また、クラブの顧問になれば、朝練や土日の対外試合も含め、部活指導や担当審判があります。それも自分の専門分野ではない種目(たとえば、雪合戦)のときもあります。華やかなアパレル業界で営業していたときも、ただ服を売るだけではなく、得意先に営業マンの人間性(豊富な商品知識と誠実さや素早い反応など)という付加価値をつけて営業していました。つまり、世の中では守備範囲をどこまで広げることができるかという「総合力」がとても大切なのです。甲南大学では、自分の強みをさらに磨き、どんな場面にも対応できる幅広い人格形成を目指しましょう。また、甲南にはそれを可能にする学風があると思います。自分自身の人格を磨くために、人とたくさん会話し、多くの知識を吸収することが大切です。もし、時間があるなら(いえ、時間がなくても)、毎日、新聞を読みましょう。新聞はネットとは違い、幅広く知識を吸収するのに向いています。そして、吸収した知識と知識が相互に連鎖し合って、甲南人の強みである「総合力」に発展していきます。また、新聞は最小限の文字数で、明瞭簡潔に書かれているので、毎日、新聞を読めば言葉のシャワーを浴びるかのように、自分自身の思考も明瞭簡潔になっていきます。私も通学の電車内では新聞を読んでいました(当然、現在も…)。常に少し先のことと、遠い先のことを同時に考え、必要に応じて自らの考えを修正しながら未来に備えることが大切です。現在の甲南大学生の活躍を胸に、私も頑張ります。

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