甲南人の軌跡Ⅰ/井上 朋子/START WITH WHY―目的を明確に | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

START WITH WHY
―目的を明確に

井上 朋子

Inoue Tomoko

ビー・エム・ダブリュー株式会社 勤務

2008年 経営学部 EBA総合コース卒

趣味・特技

趣味:旅行、ダイビング、 最近はトレーニングに はまっています。 特技:ピアノ

好きな⾔葉

Don’t Dream Your Life, Live Your Dream.

学⽣時代のクラブ・サークル

桜舞い散る岡本と極寒のケーペン地獄

 高校での留学を終え、私が甲南大学に入学した2004年は、現在のように、国際的な経験をしたことのある10代の人たちがまだそう多くはない時代でした。バイリンガルという武器を手に帰国した16歳の私は、校内ではある種特別な存在で、「語学は単なるツールであって、それだけを勉強しても意味がない」と一丁前に考えていました。そんな私が大手を振って入学したのが、甲南大学EBA総合コース(現・マネジメント創造学部特別留学コース)でした。1学年40人にも満たないこの特別なコースは、経営学・経済学という専門科目を専攻しつつ、実践的な英語教育を身につけ、ニューヨーク州立大学への留学が義務づけられている特異なカリキュラムが特長でした。

 阪急神戸線岡本駅の近く、山と海に挟まれた高級住宅街が広がるこの地で、学校帰りにはお洒落なカフェで割高の紅茶なんて飲みながら女子トークに花を咲かせる。そんな日々を過ごしながら、アメリカでちょちょいと単位でも取って帰国しよう。そう楽観的に考えていた私でしたが、訪れた4年間は想像よりも遥かに厳しく、しかし、同時に女子トーク以上の大輪の花が開花する貴重な時間となりました。

 流暢な英語を話すなんてあたり前!?中学や高校での留学経験がある学生が多かったEBAは、英語教育のレベルがとても高く、実践的な語学を身につける日々に戸惑うこともありました。外国人の教授たちから毎日出される課題に四苦八苦しながら、英語を英語の意味のまま理解することを主な習得方法としていたため、英英辞典を片手にレポートを仕上げる。アメリカに行ってからの状況はさらに過酷なものでした。アメリカ人の学生たちと同じ授業を履修し、ディベートやプレゼンに追われる日々。英語がわからないなんていっていられない環境です。

 冬には−15度にもなる北米のキャンパスで、夜な夜な震えながらよく訪れていた場所があります。それは、寮から徒歩10分のケーペンと名がつく図書館です。24時間利用できる学生専用の施設で、ここでよく夜遅くまで分厚い教科書を開き、ペンを握りました。あたりを見渡すと同じように参考書と格闘するEBA生の姿がチラホラ。いつしかケーペンにこもり、徹夜で勉強するこの行為は、私たちの間でケーペン地獄と呼ばれるようになりました。

異国の地で仲間の誰かが挫けそうになったらみんなで支え合ったEBAの学生たち。私にとってかけがえのない宝です。日本の味が恋しくなったとき、誰かが持っていた昆布茶の粉をアメリカで買ったパスタにかけ「出汁の味!」と喜び、小皿で分け合った最高の同志です。

 卒業式では、桜が舞う岡本キャンパスで花びらが滲んで見えるほどの涙を流しました。大学でこんな青春ができて、一生涯の友だちができるなんて、本当に夢にも思っていませんでした。

まさにEBA が掲げていた指針。
日本から世界へを実現

 私は新卒で総合広告代理店に入社しました。留学当時に思った日本の文化を世界に発信したいという思いを、幅広い視点で検討し、発信していくことができるのではと考え、日本の広告代理店に入社することを目標にしていたのです。

 その後、自分の語学力と国際経験を活かしたいと考え、外資系広告代理店に転職し、化粧品のグローバルコミュニケーションに約5年間携わりました。海外で働くことを切望していた私は、転職直後、当時の社長に「この会社で広告の仕事をして海外に行きたい」という率直な気持ちを伝えに行きました。社長は「今の道(化粧品のグローバルコミュニケーション)のエキスパートになれ。それができたら3年後には海外に行かせてあげる」と明確な回答をしてくれました。

 それから3年後の28歳のとき、クライアントだった某外資系消費財メーカーのアジアHQ(Head Quarters:本部)があるシンガポールへの赴任が決定。20代後半というのは1人で仕事も回せる、多少のピープルマネジメントも経験している段階です。しかし、日本人が外資系企業の海外オフィスに赴任し、母国語ではない言語のみで仕事をするというケースはほとんどなかったというのが実情でした。入社した当時は留学経験もあるし、「まぁ大丈夫かな」なんて思っていたものの、周りには英語が母国語の外国人や、帰国子女の日本人ばかり。そんななかでも私が海外に行けたのは、まさに当時の社長の言葉どおり「その道のエキスパート」になったからでした。

 私はそのブランドのファンでした。日本ブランドからグローバルブランドへ進化させるということをミッションに掲げていたのですが、それは私が就職活動当初に思い描いていた「日本の文化を世界に発信したい」という希望と重なっていました。プロダクトのことはもちろん、日本にいたときから海外オフィスとのやりとりが仕事の約9割を占めていて、多国籍チームでのプロジェクトの進め方や、数多くあるプロジェクトを同時に進めていくマルチタスク能力を身につけ、ブランドのグローバルコミュニケーションというスキームを広告代理店の立場から実現していくという仕事を、日本と海外で経験しました。

 5年間同じブランドに携わった私は、そこで一区切りつけ、次のステージを考え始めました。ずっと考えていたクライアント側への転身です。広告代理店というのはクライアントありきのビジネスなので、最終決定はいつもクライアントがくだします。大きく意思決定をする側に移りたいという思いが強くなり、クライアント側への転職を実現しました。化粧品(=消費財)を経験した後で、現在の会社で車(=耐久財)のマーケティングに携わることでさらに充実したキャリアを歩みたいと思っていました。

 現在は、BMWブランドのキャンペーン全体を、自身が働いていたような広告代理店の方々と一緒にチームとなって設計し、360度のメディアプランおよびクリエイティブ開発を行っています。広告代理店時代に培ったグローバルな視点、グローバルブランドをどうローカライズしていくかという視点が必要な現在の仕事をとおして、自身のマーケティングキャリアの幅をさらに広げていきたいと考えています。

人生 100 年時代。
従来の考え方に縛られない生き方を考える。

 上述のように、私は現在の会社で3社目になります。10年間のキャリアで3社経験するのは多いと思われる方もいるかもしれません。しかし、さまざまな環境で、多国籍の人種が集まる企業で異なる事業を経験することは、今や「人生100年時代」といわれるこれからの世の中では、あたり前になってくるのではないでしょうか。

 先日、経団連が2021年以降の就活指針を廃止すると発表しました。これまでの3月広報解禁、6月選考解禁という企業側のスケジュールを、2021年以降は守る必要がなくなるということです。私はこれまでアジア、ヨーロッパ、アメリカなどさまざまな人たちと仕事をしてきたため、教育から就職という一連の流れが日本はすごく特殊であるということを知りました。年上の部下がいたり、その逆に、年下の上司がいることや、自分の求める仕事ができない環境であれば転職するという考え方も、あたり前のように浸透していました。これが正しい正しくないということではなく、従来の日本があたり前だと思っていた年功序列や終身雇用、新卒一括採用、そして65歳定年などといったことがあたり前ではなくなる可能性がある、という認識をいかに持てるかが重要だと考えています。

 学生のみなさんには、環境がどのように変化しても対応していける柔軟性の高いマインドセットを身につけていってほしいと思います。そのためには、何ごとも失敗を恐れずにチャレンジしてみる「精神」、想像とは違った状況に陥ってもそれを楽しめる「強さ」、そしてそんなあなたを応援してくれる大切な「仲間」をつくることが、学生時代にできる一番大切なことだと思います。私はこれまでそんな環境に恵まれてきました。今でもEBA時代にできた友人たちは、キャリアの面でもプライベートの面でも、常に相談することができる素晴らしい仲間たちです。今年で卒業10年目になりますが、今でも毎年、忘年会をやっていますし、海外に滞在している友人には必ず会いに行ったりしています。先輩後輩にかかわらず仲よくできていることも、少人数制でEBA専用のキャンパスがあったからこそだと思います。

 学生のみなさんも、自分自身の人生は自分の手のなかにあるという意識をしっかり持って、どんな人生を今後歩んでいきたいか、自らしっかり考え、そのうえでどんな仕事や経験を身につけていきたいかを考えてほしいと思います。

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