甲南人の軌跡Ⅰ/小林 一雅/人はみんな天才 大切なのは、得意分野で自分を尖らせること | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

人はみんな天才 大切なのは、
得意分野で自分を尖らせること

小林 一雅

Kobayashi Kazumasa

小林製薬株式会社
代表取締役会長

1962年 経済学部卒

趣味・特技

趣味:ゴルフ 特技:フィギュア スケート

好きな⾔葉

「為せば成る、為さねば 成らぬ何事も、成らぬは 人の為さぬなりけり」

学⽣時代のクラブ・サークル

フィギュアスケートのために甲南大学へ

 甲南中学校に入るために、小学生のときから受験勉強に励みました。「東の慶應、西の甲南」といえば、どちらも名門というイメージがあり、子どもの頃から甲南に憧れていたのです。ただ、その頃の甲南は、まだ大学の設立計画もなかったはずで、いずれ進学の際は、国立大学に行くつもりでした。

 ところが、中学2年生のときに出会ったフィギュアスケートが、私の人生を変えたのです。とにかく、氷の上を思いのままに滑れるのが面白くて仕方がない。体格面でも自分に向いているスポーツだと思いました。その後、努力のかいがあって高校3年生のときには国体に出場。大学に入っても続けたい、できればオリンピック出場を目指したいと考えるようになりました。

 けれども、国立大学に進むにしても、大阪大学や神戸大学にフィギュアスケート部はありません。そもそもフィギュアを始めたきっかけは、学校の先輩に誘われたからでした。彼はフィギュアスケート部のある甲南大学に進んでいます。「フィギュアを続けるなら、甲南しかない」。そう思い込んだ私は、国立大学に進ませたかった父親とは随分揉めましたが、譲らない性格を押し通して、結局推薦で甲南に入りました。自分がこうだと思ったことは、何としてもやり遂げる。そんな一途で頑固な性格は、この頃にはすでに育まれていたようです。

 大学入学後はスケート三昧の4年間を送りました。といっても、勉強での手抜きも一切しませんでした。毎日、午前中は大学で授業を受けて、午後は深江か梅田のスケートリンクで練習する。時には6時からの朝練をこなしてから授業を受け、その後、またリンクに通うという毎日でした。それだけ練習したおかげで、大学時代は4年続けて国体に出場し、4年生のときには全日本6位となりました。ただ、残念ながらオリンピック出場は叶いませんでした。小学生の頃からオリンピック一筋でやってきたライバルたちには、そう簡単に勝てないものです。それでも、平生先生の言葉「自分の一番強いところを伸ばせ」を支えに頑張りました。

 今思えば、スケート漬けの大学生活でしたが、成績はよかった方でした。高校時代に受験クラスにいたこともあり、メリハリを効かせた勉強方法が身についていたからでしょう。やるときには徹底的に集中するのが、私の勉強方法でした。

 大学1年生のときに、父が亡くなりました。それもまるで狙い定めたかのように、私の誕生日にです。いずれ家業を継ぐことは覚悟していましたが、毎年、自分の誕生日、つまり父の命日を迎えるたびに、父から「俺の考え方を思い出して、きちんと会社のことを考えろ」といわれているような気分になります。

卸売業からメーカーへと大転換、
大ヒット商品を次々と生み出す

 在学中は将来の仕事について考えることはなく、また、とくにマーケティングや経営について学ぶこともありませんでした。ただ、父からは常に「跡継ぎとしての自覚を持て」「メーカーへの転換を推し進めろ」といわれ続けていたので、いつの間にかその言葉が自然に体に染み込んでいたように思います。

 卒業してすぐに小林製薬に入り、メーカー部門を志望しました。当時の小林製薬は、圧倒的に薬の卸売がメインの会社であり、メーカー機能などオマケのような存在にすぎませんでした。母親が社長職を引き継ぎ、実質的な経営は専務が取り仕切っていました。私にとって何より幸運だったのは、入社後すぐにアメリカのメーカーが、日本の問屋の社長を集めてアメリカに招待してくれたことです。本来なら母親が行くところでしたが、代理で私が行かせてもらうことになりました。そして、訪れたアメリカで、強烈なカルチャーショックを受けました。

 「日本はこの国から50年ぐらい遅れている。本格的にメーカーを目指すなら、アメリカで学ばなければならない」。そう決心した私は、帰国後まず英語の勉強に取り組みます。ある程度話せるようになった時点で、アメリカ留学を申し出ました。これには専務以下、取締役全員が反対しましたが、私は会社の未来のために絶対に行かなければならないと初志貫徹。現地の大学でマーケティングとセールスを学び、時間をつくってはマーケットリサーチにも励みました。

 1年間の留学で得た学びと、現地で仕入れてきたアイデアをもとに開発したのが、「ブルーレット」と「サワデー」です。日本ではまだ水洗トイレが少なかったので、ブルーレットが売れるまでには時間がかかりましたが、サワデーはたちまち大ヒット商品となりました。サワデーの売上だけで特別ボーナスが出たぐらいで、この成果により、私以外の経営陣も卸とは比較にならないメーカーの利益率の高さを認識することになったのです。

 それからは私に反対する者はいなくなり、一気呵成に改革を進めていきました。私の戦略は「小さな池の大きな魚を目指す」こと。競争相手がひしめくマーケットではなく、小さくてもよいから必ず1位になれる市場で勝負するのです。当社の製品を見ていただくとわかりますが、マーケットの規模は小さくとも、必ずそこでトップになっています。

 そうした商品を開発するためには、アイデアが欠かせません。社内から自由にアイデアが出る雰囲気づくりに、当時としては珍しかった「さん付け呼称」制度を導入するなど社風も変えていきました。

大切なのは「為せば成る」の精神

 振り返れば、私の人生では、常に反骨精神が道を切り拓いてくれたといえるかもしれません。父の反対を押し切って甲南大学に進み、役員会の猛反対にもかかわらず、アメリカ留学を果たしました。そして、「製薬会社がトイレの消臭剤をつくるなどご先祖様に顔向けできない」とまでいわれながらも、大ヒット商品を開発してメーカーへの転身を果たしたのです。

 そんな私の座右の銘は「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」です。成功と不成功を分けるのは、実は、ほんのわずかな差にすぎません。ただし、その差を乗り越えるためには、のたうち回るような努力をする必要があるのです。

 平生先生は「凡ての人は天才であり、その天才を発揮させていくと云ふことが、人間をつくることの本義でなければならぬ。ただ各人の天分がそれぞれ完全に引き出されるならば、それは完全な人である」とおっしゃいました。まさに、この言葉のとおりだと思います。各自がそれぞれに持つ天才を発揮すれば、何ごともできるのです。できないのは、そもそもやらないからであり、できるだけの努力を積み重ねていないからです。人間が育つのは順境ではなく、逆境のときです。その逆境は、自分でつくり出さなければなりません。

 努力しなければ成長がないのはあたり前の話で、努力をするしないは自分の責任です。自分に対して、自分は何を求めているのかを問い詰め、望みを叶えるよう努力しなければ、何ごとを「成す」こともできないのです。

 今は物質的に恵まれていて、大抵のものが簡単に手に入る時代です。だからこそ、自分が本当に求めているものは何なのかを、改めて考えてください。そして、自分に与えられているはずの「天才」を突き止めてほしいと思います。

 すべてに秀でる必要など、まったくありません。たった一芸だけでよいから、徹底的に尖らせて飛び抜けることが大切です。自分の特長、才能を活かせる分野を学生の間に見つけて、ダラダラとメリハリのない時間を過ごすのではなく、1つのことに集中して頂上を極める。そうなれば、必ず周りから認められる人物となれるはずです。

 今の甲南大学は、国際力、研究力などに秀でています。恵まれた環境を活かしながら、自分の「天才」を引き出すこと。そのためには、自分で自分を追い込んで頑張るしかないことを、先輩からのアドバイスとして贈ります。

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