甲南人の軌跡Ⅰ/黒田 卓也/たかが甲南されど甲南 | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

たかが甲南されど甲南

黒田 卓也

Kuroda Takuya

ジャズトランペッター

2002年 経営学部卒

趣味・特技

釣り、料理

好きな⾔葉

学⽣時代のクラブ・サークル

Jazz研究会

ジャズとバスケ

 高校生活のすべてをジャズバンド部の活動に注ぎ、大会で3連覇を成し遂げた後、晴れて甲南大学生になった暁には、音楽以外のあんなことやこんなこと、楽しいことを目一杯してやろうと目論んでいました。そんな矢先、一緒に進学した音楽仲間の熱心な誘いで、結局大学4年間もジャズに明け暮れることになりました。1998年の春、練習部屋もなく、またサークルでもなかったジャズ研究会を高校からともに進学した仲間たちと一緒に立ち上げました。目指すは夏の全国大会。とはいえ、おそらくは人生でもっとも無責任に無制限な楽しさを保証されている大学生活(人それぞれだが)。ジャズだけに占領されるのはどうも悔しいということで、週3回はバスケットボール、残りはジャズバンドの練習をして過ごしました。おかげで、とんでもなく忙しい大学生活を送ることになりました。

 まずは、ジャズ研究会をサークルにするということで、部長を中心に盛り上がりました。学祭、合宿、新入生歓迎会、演奏会、それに夏の大会、指導者もいないなか自分たちで考え、衝突し、分裂するなど、さまざまな人間模様を体験しました。また、バスケットでは、自分が一番経験のないなか、すごい経歴の選手たちに囲まれながら、兵庫県のクラブチームに所属しました。そこでは、下手な自分がどうやってチームに貢献できるかを真剣に考えながら、夢中になって練習したのを覚えています。

 ジャズ研究会にバスケット、それに加え、月に数回は大阪や神戸のジャズクラブで演奏という忙しい大学生活を送っていたわけですが、印象に残っている出来事は、バスケットの練習の際に唇を大きく切ってしまったことです。その場に居合わせた友人には、「そんなん大したことない」と軽くあしらわれつつも、私としてはトランペットを吹かなければならないので一大事でした。実際、病院で縫わなければいけないほどでしたし、そのせいで、半年間はトランペットがろくに吹けず、深く落ち込んでしまいました。

 ぼんやりと、将来トランペッターになりたいと考えていた私は、この事件でいろいろ考えさせられました。また、こんな怪我をまたしてしまったら、もうトランペットは吹けなくなるのではないかという思いもあり、バスケットはちょっと控えるべきかと思い至ったのです。こうしてみると、時間だけはたっぷりあると思われた大学生活も、案外そうではないと感じ始めました。その頃から、もっと真剣に音楽に取り組み、アメリカ短期音楽留学、またジャズクラブでの演奏にも力を入れるようになり、ぼんやりとしていた自分の夢に真面目に向き合うようになった大学生活の後半でした。

ニューヨーク音楽日記

 ニューヨークに移り住んだのが2003年。随分前のことですが、降り立ったその日が大雪で、真っ白な人ひと気けのないマンハッタンが私の不安をさらに煽ったのを覚えています。トランペット1本を携え、伊丹空港で家族や友人に見送られ、あたかも戦争に向かう兵士のごとき気持ちで乗り込むも、本場のジャズのレベルの高さに早速打ちのめされました。友だちもいない私は、たちまちホームシックになりました。アメリカのサンドイッチやベーグルなどは、パンの種類、具の種類など、口頭でカウンター越しに説明しないと買えないシステムなので、英語でろくに注文もできない私は、オレンジジュースばかりを飲んでいました。そんな辛かった1年目も終わり、やっと友だちができ、少しずつニューヨークが楽しくなってきました。ベーグルも注文できるようになり、何となく馴染めてきたものの、ジャズでは大した成果のない2005年ごろ、師匠と呼べるトランペットの先生に出会いました。

 ローリーさんという方で、女性のトランペット奏者です。著名な演奏家を含む数千人という生徒を今まで教えてきたという、とんでもない方でした。その経歴とは裏腹にというか、だからこそなのか、実際のレッスンはとても穏やかで、物腰優しい口調のローリーさん。レッスンの最後に紙切れ1枚、「次会うときまでにこれやっときなさい」と宿題をもらうシステムでした。それを真面目にやると不思議と上達するので、どんどんやる気になったのを覚えています。

 少し時が経ち、私が初めて大きなジャズフェスティバルの舞台に立ったときのことです。周りは世界的アーティストばかりだったので、緊張でステージの記憶がほとんどないくらいまったく手応えのない演奏をしてしまい、世界には到底手が届かないと落ち込みました。ニューヨークに帰り、駆け込み寺よろしく、ローリーさんに泣きつき、「先生、もっともっとうまくなって世界に通用するトランペッターになりたい」と興奮気味にいいました。先生は私をなだめながら静かに私の話を聞き、「じゃ、これを練習してきて」といつもの紙切れ1枚を渡してくれました。ふと目をやると、それは普段と何も変わらない内容。驚いて先生を見ると、「あなたが初めてここに来た日を思い出しなさい。数年かけてこんなにも上達したことはわかるわよね?ですから、これからもずーっとその調子で頑張りなさい。突然上手になるなんてことはありません」。なんてあたり前で、素直でむき出しで、力強くて正直なんだと、自分が今から立ち向かう世界の厳しさをその一言で十分に感じ取ることができました。 その数年後に、ローリーさんは亡くなってしまうのですが、今でも自分が悩み苦しんでいるときには、ローリーさんの言葉を思い出したり、そんな私を見たら、こういう言葉をくれるんじゃないかと想像したりします。「さあ、今日も練習しますよ」と。

これでいいのか?これでいいのだ

 これから社会に飛び出していくみなさんたちに向けて何かメッセージを送りたいのですが、いかんせん、私のいる現場が音楽であり、またニューヨークであるという、とても特異な状況ですので、私の助言などが役に立つとは思えません。しかしながら、さまざまな国籍や職種の人々と出会い、形成した私の考え方もどなたかには響くかもしれませんので、共有させていただければと思います。

 私がここまでこれたのは、「自分とは」という問いから逃げずに戦ってきたからだと思います。15年前、ニューヨークに移住したとき、甲南大学で、またそれまでの人生で培った価値観などは一気に吹き飛ばされました。言葉が通じない場所でやっていけるのかと呆然とするなか、何か自分のなかで変えなければ、覚悟を決めなければと思いました。真剣に自分に向き合い、音楽に向き合い、名声やお金ではなく、自分の価値観や考え方を磨き、自分の人生に責任をもつという自覚を養うことが大事です。家族や友人の支えさえも甘えになると思い、「もう日本には帰らない」と腹をくくったこともあります。

 何かを成し遂げるという直線的な生き方もあるとは思うのですが、音楽という非常に采配が曖昧な芸術をやるうえで、自己の純粋な嗜好、たとえば、どんなものに血液が沸騰するようなエキサイトを感じるのかという部分を突き詰めていかなければならないのです。自分と音楽の関係が健全と思えれば幸せだし、そうでなければ不満だといった具合に、日々の生活がとてもシンプルになります。私の願いは、明日も10年後も30年後も、そして死ぬ日にもそう思えれば、よい人生だったと思える気がします。

 みなさんのなかには、やりたい将来の目標などとくになく、就職したら給料がもらえて、いつか結婚して子どもを産んで…、という漠然とした将来を考えている人もたくさんいると思います。しかし、それが普通だと思っていたら大間違いです。世界の常識からすれば、それはとても特殊な人生です。世の中にはいろいろな人がいます。同じ価値観のなかで守られながら生きていくのも悪くはないですが、「これでいいのか?」と、たまには自問したうえで、「これでいいのだ」と合点してもらいたいです。ひとつ外に飛び出して、自分のなかに眠っているものを覚醒させてやるのも、また1つの人生なのではないでしょうか。

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