
公開日 2026年7月21日
人生に正解はない。 すべてが素晴らしい!
安藤 孝志
Ando Takashi
株式会社三宮一貫樓 常務取締役
1997年経営学部卒
趣味・特技
ゴルフ、食べ歩き、 お店ご紹介
好きな⾔葉
一隅を照らす
学⽣時代のクラブ・サークル
ありきたりな青春時代
1993年、私は1年間の辛く孤独な浪人生活を経て、甲南大学に入学しました。
鬱屈した1年を過ごした末に手に入れたあこがれのキャンパスライフでしたので、その反動から、入学当初より勉学よりも合コンやレジャーに比重を置いた、浮ついた毎日を真剣に楽しんでいました。友人と遊べば朝まで三宮で飲み明かし、新しいゲームが発売されれば1日の大半をそれに費やすなど、思い返してみても赤面してしまうほどの自堕落な生活でした。一方、そんな軽薄な刺激が長続きするはずもなく、部活動など真剣に打ち込めるものがない自分に次第に焦りを募らせていきました。
2回生の後半あたりになると、あれだけ楽しいと思っていた大学が私にとって少し苦しい場所に変わっていきます。大学生活も残り半分ともなると、卒業後にどうする、どうなるということをリアルに感じるようになったのです。友人たちを見渡しても、自分自身で何かしらの目的を見つけて、それに邁進していく人たちが増えていきます。そんな友人たちと何もない自分とを勝手に比べて劣等感にさいなまれる日々を送っていた時、そんな憂鬱な気分を根こそぎ吹き飛ばす出来事が発生します。
1995年1月17日午前5 時46分
淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3 を観測した阪神淡路大震災が発生。
その日は大学の後期試験中で、私は及第点ギリギリの試験を控え朝方まで試験勉強をしていました。少し仮眠を取ろうと布団に入ってすぐ『ゴゴゴ…』という音に、これって地鳴り? と思った刹那、ドンッ! という衝撃が襲いました。激しい振動はたて揺れとなり、突きあげられたかと思うと、今度はユッサユッサと家ごと神輿に担がれたような激しい揺れに襲われました。私は本能的に布団をかぶり、激しい揺れの間、言葉にならない叫びを布団の中で上げていました。
揺れがおさまってみると家屋の被害は幸いタンス等が倒れただけでした。これまで大きな地震をほとんど体験したことがなかったもので、家族と顔を見合わせた際には「今ので震度4 くらいかな?」ととぼけたことを言っていた記憶があります。電気が復旧し、映像で変わり果てた街の様子を見て、はじめてこれは大変なことが起きたのだと感じました。
大学の被害も甚大でした。後期試験はすべてレポートに振り替えられ、校舎の大半が被災して、その取り壊しと仮設校舎の建築がなされ、ようやく授業が再開されたのは6月ごろだったと記憶しています。神戸を拠点に展開している家業、三宮一貫樓もかなりダメージを受けました。「お家の一大事」だと母親に家業に入ることを厳命されたのもこのころで、授業のない日はほぼ店の手伝いに入ることになりました。横暴ともいえる母親の言葉を素直に聞き入れることになった要因の1つが、大学時代に真剣に打ち込むものがなかったこと、というのは、今思い返してみても皮肉なことだといえます。
かくして私の大学生活は「浮かれ」「迷い」「沈み」「働く」という過程を経て、特に何も成すこともなく終わりを迎えたのでした。
未来を信じることの強さ
卒業してそのまま入った家業である中華料理店、三宮一貫樓の看板メニューは、豚まんです。昭和29年創業以来現在に至るまで、私たちのもとに数々と訪れた難局を乗り越えることができたのは、この豚まんのおかげでした。
私は4人兄弟の末っ子で、姉と兄2人もすでに家業を支えていました。業績が良くないことは家族、特に両親の顔色を見てうすうすわかっていました。その原因は被災したことだけではありません。地価高騰を招いたバブル経済に巻き込まれたことが大きな要因でした。
バブル景気中期、狂ったような不動産売買が横行し、地上げ屋、土地転がしという言葉が世間をにぎわせていました。繁華街の中心にあった当社の本店は、まさにその渦中にあって、不条理な立ち退きを宣告されました。しかし、先代社長である父親は断固拒否の姿勢を貫き、裁判で和解を勝ち取ります。字面だけだと美談に見えますが、和解後はその土地を買い取らなければならないという現実に直面します。当時は土地が食い物になった時代です。投機目的でオーナー変更を繰り返すたびに土地の売買価格は暴騰しており、和解後に3人目の大家である先方から提示された40 坪の土地建物の価格は、12 億5000 万円でした。「坪単価にして3000 万円超」という価格について調べたことはありませんが、神戸でもベスト3 に入る取引価格ではないでしょうか(苦笑)。さらに言えば、私が入社した当時の負債総額はすでに20 億円を超えていましたので、1 個140円の豚まんを販売する商売人がするスケールの借金ではないことは明らかでした。
20 代前半から30 代後半まではこの負債を返すことが私のビジネスの使命となりました。といっても借金返済のウルトラC があるわけでなく、したことと言えばただひたすらにハードワークであり、私の20 代はブラックという言葉が生ぬるいと思えるほどの労働の日々でした。朝9 時に事務所に入り18 時から夜中の2 時まで店番をして、そこから工場でスープを炊きに入り朝7 時出荷で仮眠、また9 時に事務所へ入る毎日。決してハードワークの自慢をしたいわけではありません。ですが、この経験があるために少々のことでは動じない自分がいます。
負債返済に向けた日々のほかにも、窮地と呼ばれる時期はありました。記憶に新しい新型コロナウイルス感染症拡大も、家業の存続を揺るがす危機ではありましたが、震災後の負債返済に比べたら、まったく大したことないとも感じていました。業績を支えた要因は鉄道会社からの効果的な出店オファーやテレビ通販でのブレイクなどさまざまありますが、一番は希望を信じ、あきらめることなく行動をしてきたこと、これに尽きます。しんどい時には腐った時期もありましたが、「将来はきっと大丈夫」と漠然とした、根拠のない自信を持ち、愚直に行動をし続けました。そのメンタルを支えた土台は、両親の負けん気と、注いでくれた愛情に他なりません。それらのおかげで安心して前だけを向いて走ることができました。願わくば次は私がその役割を担い、次代に繋ぐことができれば幸せに思います。
人生100年時代に持つべきマインド
私は来年50歳を迎えます。前述したように私は冴えない学生時代を送り、20 代30 代をビジネスというのもはばかられるような労働に明け暮れた人生を送りました。おかげさまで「三宮一貫樓」という屋号は地元ではそれなりに知られた存在にはなってまいりましたが、まだまだ人さまに誇れるようなものであるとも思っておりませんし、これからの時代を担う皆さんに偉そうに人生の手本たる道筋を示すなんてことはおこがましいと思います。
そんな私ではありますが、もし皆さんに伝えるとすれば、どんな学生時代を過ごそうともその時にしたいことをすればいいということに尽きるかと思います。それは部活動やボランティア、留学やアルバイト、学生起業などでもいいでしょうし、はたまた私がやっていたように遊びに明け暮れてもいいでしょう。時に色ボケと言われるくらい恋人におぼれてもいいとも思っています。その時に抱いた思いに素直に従うべきだと私は考えます。
私の生業である飲食業界は、比較的若くして一国一城の主となる人が多い業界です。同級生の中でも20 代で独立、30 代前半で繁盛店のオーナーになる人たちが出てきました。そのころの私といえば、親の庇護の下(と勝手に思っていた)で単純労働に明け暮れており、著しく低いセルフイメージで同級生の活躍をねたみ、そんな自分に心底嫌気がさしていました。そんな他人と自分とを比べて焦りを募らせていたころに救われた言葉があります。
「人は遅咲きの方がカッコいい」
本の一節だったか、人から言われたことかは忘れてしまいましたが、この言葉に出会い、はじめて自分のがんばりを肯定できた気がしましたし、今のしんどさは40 代50 代になった時に必ず実を結ぶと信じられるようになりました。ちょうど50 代に差しかかる今に振り返ると、まだまだ大輪の花とはいかないまでも、若き日に人より少ししんどい思いをして伸ばした根っこの分だけ花が咲き始めていると実感します。だから今回このような執筆の機会もいただいたと思っております。
人生100年と言われる時代にあっては、40 代の私でもまだまだ若手の部類に入ります。ひと昔前であれば「不惑(ふわく)」と言われた年代ですが、まだまだ惑うことも多く、遅咲きの盛りはまだまだと感じております。若さの特権、それは迷っても、悩んでも、時間が膨大にあるということです。
皆さん、大いに迷い、大いに悩んでください。その迷った時間の長さや悩みの深さが数年後の皆さんの血となり肉となっていることでしょう。いつか振り返ってみた時、自分に起こったことは良いことも悪いこともすべてギフトであったとわかるはずです。一歩一歩あじわい尽くしながら素晴らしい人生を歩んでいってください。応援しています。
発行日:2023年3月30日

