甲南人の軌跡Ⅲ/川原正孝/空手で鍛え上げた4年間が その後の人生の礎に | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

空手で鍛え上げた4年間が その後の人生の礎に

川原 正孝

Kawahara Masataka

株式会社ふくや 代表取締役会長

1973年経営学部卒

趣味・特技

博多祇園山笠(祭り)

好きな⾔葉

「他人は自分の鏡である」

学⽣時代のクラブ・サークル

体育会空手道部

おとなしい大学の中の別世界

 甲南に入ったのは兄のすすめがあったからです。兄の友人に甲南出身者がいて「まちがいなく良い大学だから」と聞かされていたそうです。高校時代は空手をやっていましたが、その頃から大学空手の凄まじさを知っていただけに、大学に入ってまで続けるつもりなどありませんでした。そもそも甲南に空手は似合わないでしょう。

 ところが、入学式に来てくれた母を、トイレまで案内してくれたのがたまたま空手道部の人で、その方に母が「息子は高校時代、空手をしていて……」などと話してしまったのです。それから熱心な勧誘を何度も受け、忘れもしません、4月26日、とうとう根負けして入部しました。

 初めて道場に行ったときには、先輩方の道着が白かったので少しだけ安心しました。高校時代に着ていたのは、血が出てもわからないようにするため黒の道着だったからです。ここはそれほどきつくなさそうだと喜んだのもほんのつかの間、実際に先輩に近づいてみると、道着は純白ではなく、黄色く濁っている。これは血の跡を意味します。

 上品な人の多い大学と思って入ったのに、空手道部だけはまったくの別世界でした。何しろ全国や関西の学生大会で上位に入るような、気性の激しい人たちが集まっているのです。入部後は空手漬けの日々となりました。毎日、午前中の授業と語学・体育は出席できるけれど、午後は基本的に道場で過ごします。昼休みも稽古があり、長期の休みには強化合宿が待っていました。先輩からかなり厳しく鍛えてもらったこともあってか、同期の10人とのつながりは深く、今でも連絡を取り合う仲です。

 初めて一人暮らしをした場所は、学校から30分ほどのところにあった6 畳一間のアパートでした。ところが2年生になると、1年生にいろいろおごってあげるのが部のしきたりです。お金を節約するため、大学近くの3 畳間に引っ越しました。当然、風呂などもありません。同じ下宿に料理の得意な学生がいたので、みんなでお金を出し合って食材を買い、彼に作ってもらっていました。おそらく甲南の学生の中でも、かなり特殊な学生生活を送ったのではないでしょうか。

 ただし授業の成績は決して悪くありませんでした。持つべきものは友だちで、みんなが一生懸命に教えてくれるので、A の数は多い方だったと思います。

 同期には体格の良い人が多く、先輩からは「お前たちが4年生になったときが楽しみだ」といわれていました。最終的には大学4年のときに西日本大学空手道選手権大会団体戦でベスト8 となり、最後まで誰一人脱落せず、10人揃って続けられました。ただし、本当にほぼ空手だけの学生生活で、夏休みの思い出も合宿しかありません。アルバイトに行く気力も残っていなくて、時間が空いたときにはヘトヘトの体を休めている。こんな日々でしたが、地元の祭りである山笠に参加するために7月上旬は必ず福岡に帰省していました(タダでは帰省させてはもらえませんでしたが)。大学時代の4年間が、知らず識らずのうちに自分を鍛え上げてくれていたのです。

知らぬ間に培われていた強靭さ

 就職先は早い段階で決まっていました。空手のつながりで、武道系の人が多く働く運送会社にお誘いいただいたのです。そこで港湾労働者の人たちのまとめ役を任されることになっていました。

 ところが夏に福岡に帰ったときに、母親に就職先について話すと「それはいけん」となり、急遽兄が勤めていた銀行を受けさせられたのです。面接に行ったときは、坊主頭でサングラスをかけていました。というのも、面接直前に行われた練習試合で目のまわりをケガしていたので、サングラスで隠していたのです。

 それでも面接官は兄から事情を聞いていたのでしょう、特に驚いた様子もなく「髪は伸ばせますか」と「普通のメガネに変えてもらえますか」とだけ聞かれました。当時の兄は、若くして支店長代理を任されていたので、その弟ならと大目に見てもらえたのだと思います。

 銀行で働き始めて、最初に驚いたのが残業です。研修が明けて支店に配属された初日、シャッターが3 時に閉まりました。自分が任された分の経理はぴったり合っていたので、これは早く終われてありがたいと帰ろうとしたら、とんでもないと直ちにまわりから引き止められました。銀行では、全員の数字が正確に合うまでは誰も帰れないのです。だから毎日残業です。

 それでも体がきついとは、まったく感じませんでした。実家から通っているから食事はしっかり食べさせてもらえるし、空手道部のときのように先輩から叩かれる心配もありません。おまけに給料までもらえるのです。少々の残業などまったく苦になりません。

 仕事について一生懸命に学び、営業活動にも精を出した結果、5年目で支店長代理となり、6年目で組合活動でも中央執行委員を任されました。普通の人には「キツイ」業務が、私にはまったく「普通」だったのです。

 そんな中で、父の体調が悪化したため、実家の店を引き継ぐことになりました。兄は既に支店長となっていて、簡単には抜けられません。私も「1年間の休職扱いにするから」と上司からいってもらいましたが、踏ん切りをつけるために辞めました。

 家業の『ふくや』は、父が社会貢献のために立ち上げた、日本で初めて明太子をつくった会社です。「利益を出して税金を納める」が父の口癖でした。「みんなのために」を第一に考えるから、明太子については製法特許も商標登録もとっていません。どうぞ真似して、みんなも稼いでくださいというわけです。しかも、父は税金をより多く納めるため、あえて法人化せず個人商店として続けていました。

 さすがにそれでは厳しいので、父が亡くなった後、母を社長として法人化し、企業としての継続性にも配慮するようになりました。銀行時代の女性行員や、後に初めて募集をかけたときに来てくれた女性の優秀さに目を開かれ、それ以降は会社のポリシーとして女性を大切にし、女性社員を増やしていきました。ただし、人を見るときには、大学時代に師範から教えていただいた「つねに公平に」を忘れないようにしています。

 たまたま仕入れで失敗した材料から大ヒット商品となった「数の子明太子」ができたり、リーマンショックで法人の贈答需要が激減したものの超円高により材料仕入れで利益が出たりと、運にも恵まれてこれまでやってこれました。その礎となったのは、大学時代の厳しい稽古で培われた強さだったのだと思います。

何か1つでいいから打ち込めるものを

 大学時代には、何か1つに全力で打ち込んでみませんか。クラブやサークル活動でもいいし、もちろん勉強ならなおよし、仮に遊びでも全身全霊をかけて取り組めば、何かを得られるはずです。逆に、ぜひとも注意してほしいのが、中途半端に「あれも、これも」と片っ端から手を出しては、最後までやりきれず途中で投げ出してしまうことです。

 学生時代にしか挑戦できないテーマや時間の使い方があります。いつでもチャレンジできると学生のときは思っていても、社会人になってからでは決してできないのです。しかも学生のチャレンジには、基本的になんの制約もないはずです。学生ならではの特権をぜひ活かしてください。私も採用で学生を面接する際には「何をがんばってきましたか」と必ず聞いています。

 もう1つ意識してほしいのは、甲南独特の良さです。私が学生のときは大学紛争の真っ盛りでした。学生紛争といえば東大をイメージする方もいるでしょうが、関西でも関大や関学で学生運動が盛んになり、「甲南でも学長室占拠をやらなければ」とある日、大勢で甲南大学に乗り込もうとしたのです。

 まさに危機一髪の状況となったのですが、「甲南だけは学生運動から守らなければいけない、血気盛んな学生たちを絶対に甲南には行かせちゃダメだ」と顔見知りだった関大や関学の空手道部のみんなが一致団結して各々の大学の学生運動家たちを止めてくれ、甲南を学生紛争から守ってくれたのです。

 もちろん、今では状況は変わっていると思います。けれども、甲南の本質とは、まわりから一目置かれる大学である、と私は受けとめています。その良さをみなさんも引き継いでいるのです。ぜひ、甲南の良さをさらに続く世代にも伝えていってください。

発行日:2023年3月30日

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