甲南人の軌跡Ⅱ/加藤 隆久/神と人、人と神の出会いに導かれて | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

神と人、人と神の
出会いに導かれて

加藤 隆久

Kato Takahisa

生田神社
名誉宮司

1957年 文理学部 文学科卒

趣味・特技

古美術鑑賞、演劇鑑賞、 短歌を詠むこと

好きな⾔葉

常に備えよ

学⽣時代のクラブ・サークル

古美術研究会、 歌舞伎文楽研究会

多くの出会いを育んでくれた甲南での日々

 甲南大学に進んだ理由は2つあります。1つは父に強く勧められたこと、もう1つは兄の恩師である伊藤正雄先生の教えを受けるためです。文理学部文学科では「近世の和歌と国学」「福沢諭吉の研究」などで著名な伊藤教授と「安土桃山時代文学史の研究」などで名高い荒木良雄教授から薫陶を受けました。

 学びに加えて、古美術研究会と歌舞伎文楽研究会に入りクラブ活動にも力を注ぎました。古美術研究会では毎週のように日曜日になると奈良や京都の寺院へ古美術見学に出かけ、夏期休暇には薬師寺や南禅寺、知恩院などで合宿も行いました。神職の息子ながら、寺院見学に学生生活を費やしたのです。そのおかげか、薬師寺の高田好胤管長から、言葉に語り尽くせないほどの教示をいただきました。甲南の古美術研究会は、学習院大学史学科の古美術研究部と交流があり、お互いに訪問し合うほか、私が世話役を務めて京都の八坂神社で交流会を催したこともあります。

 歌舞伎文楽研究会では、旧制甲南高校出身の武智鉄二氏が率いる武智歌舞伎に参加しました。ここで後に綺羅星の如きスターとなる坂田藤十郎、実川延若、中村富十郎と出会いました。各地の歌舞伎座の天井桟敷で見学しては、自主制作のパンフレット『劇評』に感想文を書いたり、文楽の桐竹紋十郎が作った新作「瓜子姫とあまんじゃく」にも参画し、間近で鑑賞する機会を得たのも良い思い出です。

 大学3年生のときには東北・平泉の中尊寺に赴き、佐々木實高執事長のご厚意により宿坊に泊めていただき、金色堂の国宝の仏像の写真撮影も許されました。後に、このときに撮影した写真を関西学院大学文学部美学科の源豊宗先生からお褒めいただきました。

 4年生になると卒業論文のテーマに、私の生誕の地である岡山の国学者で歌人でもある平賀元義を取り上げ「平賀元義の歌」と題した論文を提出し卒業しています。

 その後さらに学問を深めるとともに神職の資格を取るため、上京して國學院大學大学院神道学専攻修士課程に進学しました。ここでも神道学や宗教学で河野省三、岸本英夫、国文学の武田祐吉、久松潜一、国語学の金田一京助、今泉忠義、英文学の吉田健一といった先生方から貴重な学びを得ました。神職の資格を得るための学びに加えて、夏休みには1か月の伊勢神宮での実習にも参加し、文学修士と「明階」という神職の資格を取得して卒業しました。その後は東京の靖國神社に奉職する予定でしたが、甲南大学の恩師である伊藤正雄、荒木良雄の両先生から「ぜひ甲南学園で教えるように」とのお声がけをいただいたのです。そこで神戸に戻り、実家の生田神社で神主を務めながら、甲南学園の教壇に立つ運びとなりました。

甲南の縁に助けられて震災から復興

 甲南学園では、中学1年生の担任を命ぜられました。紺色の学生服を着た中学生たちは、みんな健康的で溌剌としていたのが印象に残っています。授業では国語を担当し、古文と現代文を教えました。ほかにも夏には水泳教室に参加し、冬には妙高高原でのスキー教室に付き添っています。私は「ヒーコ」とか「ヒーちゃん」とあだ名を付けられ、彼らも親しみを感じてくれていたようです。

 後に高校生の授業も担当するようになり、神社の仕事との掛け持ちが大変になってきました。校舎が岡本から芦屋に新築移転した頃には、神社の勤めが多忙を極めるようになり、校長に申し出て退職し禰宜に専任する運びとなったのです。それでも昭和55年には甲南大学から非常勤講師を嘱託され、今度は大学に勤めるようになりました。この間に1800ページに及ぶ『神道津和野教学の研究』を出版し、これを学位請求論文として提出し、昭和61年に國學院大學から文学博士の学位を授与されました。

 神道青年全国協議会の会長を務めていたときには、大学時代の学友で衆議院議員となっていた石井一君に世話をしてもらい、田中角栄首相に陳情に赴いたこともあります。戦後失われていた「剣璽の御動座」の復活と「一世一元の元号」の法制化をお願いに上がったのです。面会時間は3分、首相は「いずれも難しい問題だ」としか口にされませんでしたが、帰り際に咄嗟に「ぜひ伊勢神宮に参拝してください」と申し上げると「わかった」と仰り、その後実際に参拝されました。

 それから後、甲南が結んでくれた縁の力を強く感じたのが、阪神淡路大震災からの復興時です。ちょうど還暦を迎えた年に大地震に見舞われました。ベランダから見ると、無残にも拝殿は崩れ落ち楼門も倒れています。人生が終わったと体中の力が抜けそうになったとき、なぜか亡き父親の声が聞こえてきたのです。

 「おいおい、あんた、一体何をしょげてるんだ。父親の私は、多賀大社、吉備津彦神社、生田神社を再建してきたんだ。あんたも私と同じ神職じゃないか。神職として神社を建て直す、得難い機会を神様が与えてくれた。そう考えなければだめだ」

 それで私は心機一転、以前とは声の調子さえも一変したそうです。とはいえ復興には何よりもお金がかかります。そこで地元神戸に多くいる甲南の卒業生たちを回ると、みんなが快く募金に協力してくれました。

 甲南に学び、甲南で先生を勤めさせてもらい、多くの出会いに恵まれた結果、生田神社はわずか1年6か月で奇跡の復興を達成できたのです。

挫折したときこそ新たな扉を開くチャンス

 震災までの私の人生は、順風満帆といっても過言ではありませんでした。そこで一度、まさに崖の下に突き落とされるような出来事に遭遇したのです。けれども、そこからはい上がることで私は、人生の新たな道を歩み始めることができました。

 挫折したときに何より大切なのは、気持ちの持ちようです。もしあのとき、亡き父親の声が聞こえてこなかったら今の私はなかったでしょう。けれども、私は気持ちを新たに入れ替えることができました。たとえどん底に落ちたとしても、前を向けば必ず良い方向に進んでいけるのです。

 振り返れば、甲南大学に進学するとき、私の本意は別のところにありました。けれども父の勧めに従い、前を向いて歩みました。就職に際しても、靖國神社に決まっていたところを、恩師の伊藤先生から強引に甲南に招いていただきました。その結果が今につながっているのです。

 今の甲南大生を見ていると、みんなとても人柄が良さそうです。豊かな環境のなかで、すくすくと育ってきた、そんな感じに満ちあふれています。おそらくみんな、厳しい局面を経験したり、挫折していないのではないでしょうか。日々を平和に過ごしていると、挫折する機会も少ないはずです。

 だから皆さんにはまず「これからの日本は自分が背負っていくんだ」という強い気概を持ってほしい。目標を定めて突き進めば、いやでも壁にぶち当たるはずです。それが次なる成長への、得難い機会となるのです。挫折してもくじけることなく、顔を上げ、前を向いて、進んでいく。

 甲南には、そんな挑戦をする環境があり、皆さんのチャレンジを後押ししてくれる先生がそろっています。「やるぞ!」という気力を持てば、学問でもスポーツでも挑むべき目標は見つかるはずです。

 ぜひ、1人ひとりが自分なりに何かに挑み、挫折も味わいながら、新たな道へと踏み出してください。そのとき頼りになるのは、甲南が結んでくれる人の縁です。出会いを大切に、自分の人生を切り開いていってくれることを心から祈ります。

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