甲南人の軌跡Ⅰ/西河 紀男/いわゆる「甲南大生」のイメージとはかなり違う学生生活で得た貴重な学び | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

いわゆる「甲南大生」のイメージとはかなり違う学生生活で得た貴重な学び

西河 紀男

Nishikawa Norio

三ツ星ベルト株式会社
代表取締役会長

1958年 経済学部卒

趣味・特技

残念ながらない (戦時中の子供で 食べることに専念)

好きな⾔葉

和を用いて貴とす (和を以ってではない)

学⽣時代のクラブ・サークル

学費稼ぎに忙しかった学生時代

 灘中・灘高から何人かの同級生と一緒に甲南大学に進みました。旧制の甲南高校は、帝国大学に進学する人が多い名門校で、その名残があったことに加えて、兄が甲南大学に在学していた縁もありました。甲南大学の設立が1951年ですから、私が入った54年にようやく1回生から4回生までが揃ったのです。4回生には満州から引き上げてきた人たち、そして予科練からの兵隊さんや、神戸大学の教養学部から移ってきた人など、ユニークな先輩がたくさんいました。

 学生数が少ないため、学生は私1人だけといった授業もありました。外書講読(会社法)の授業では、夏休みに2週間ほど先生のお住まいに伺い、午前中に先生が取り組まれていた翻訳のお手伝いをしました。その後、お昼ご飯をいただいて、午後は先生の坊やとキャッチボール…。こんな授業もありました。のどかな時代です。

 私は高校時代に父親を亡くしていたので、自分で少しでも学費を稼がなければと思いました。そこで精を出したのが、家庭教師のアルバイトです。多いときで教え子が10人ほどいたので、バイト代も結構な額になりました。実際、新卒入社で入った会社でもらった初任給より、バイト代の方が多かったほどです。

 当時はまだ学食もなく、校庭に建てられたプレハブの掘っ立て小屋でラーメンを食べていました。町中で1杯30円ほどのラーメンを15円で出してくれます。ただし、豚肉の代わりに薄く切ったハム、もやしの代わりに千切りにしたキャベツがのっているような代物です。それでも、当時の学生にはありがたくおいしかったです。

 私は比較的真面目に授業を受けていたので、大学3回生で卒業に必要な単位は取り終えましたが、そこそこの成績でした。おかげで4回生に上がる前に、某有名メーカーからスカウトの声がかかりました。卒業後に入社するなら残りの授業料を出して、お小遣いまでくれるというのです。これはありがたいと思ったものの、母親に「夫を亡くした上に、お前まで遠い浜松に行ってしまうのか」と泣かれて諦めました。

 当時の親友に関西大学の小曽根実君がいました。地元では有名な小曽根財閥の子息で、今では世界的に有名なジャズピアニスト、小曽根真さんの父親です。その小曽根君から「一度おやじの会社に遊びに行かないか」と誘われて、私の次の人生が決まりました。

真剣に仕事をしていれば人脈が広がる

 小曽根君のお父さんは、私が新卒入社することになる阪神内燃機工業の社長でした。私は遊びに行ったつもりでしたが、後で聞くと実は面接だったとのこと。お父さんとお話した後、実君と映画に行き、家に戻ると母親がにこにこしています。何かあったのかと尋ねると、阪神内燃機工業から電話があり「明後日から出社してもらえますか」といわれ、二つ返事で「はい、わかりました」と答えたそうです。自分のまったくあずかり知らないところで就職先が決まる。そんなこともあるのです。おかげで私は4月ではなく、3月には出社して働き始めました。

 最初に任されたのは、戦時賠償に関する交渉や事務処理の仕事です。相手が海外となるため、入社した日に、明日から英語の辞書を持ってこいといわれました。

 その頃の阪神内燃機工業の主力製品は、船舶用のディーゼルエンジンです。ところが、日本が深刻な造船不況に陥ったため、ディーゼルエンジンに対する需要が激減し、急遽新事業を起こすよう命じられました。入社5年目、27歳のときに技術者と2人で新事業部を立ち上げました。新事業部では公害防止関連の機器を開発するなど順調に業績を伸ばし、25年ほどかけて1000人体制にまでなりました。

 そんななかで、50代半ばになろうとする頃に、顧客だった三ツ星ベルトから助けを求められたのです。ベルト製造を専門とする会社なのに、設備も受注することになり、なんとか助けてほしいと泣きつかれました。設備の設計から開発は、私にとって普段から手がけている専門業務です。この仕事のおかげで三ツ星ベルトとしては、普段の取引を上廻る数億円の売上となりました。

 その関係もあって、私は三ツ星ベルトにスカウトされたのです。ちょうど54歳で定年間近だった私は、早期退職制度に応募して転職することにしました。三ツ星ベルトでは部長待遇で迎えられました。転職を知った前職時代の得意先から肩身の狭い思いをしないようにと、入社祝いとしてベルトの注文を2億円分もらいました。

 入社後半年ほどで購買部長になりました。就任1年目で年間の購買額を数億円ほどコストダウンした成果を評価され、次は会社全体を見る管理本部長に抜擢され、1993年には常務に昇進しました。定年まで適当に過ごして、後は悠々自適にと思っていたのですが、そうもいかなくなった矢先、阪神・淡路大震災が起こります。

 三ツ星ベルトは、数多くの自動車メーカーに部品を供給しているため、一刻も早く生産を復活しなければなりませんでした。当時管理本部長だった私は、瓦礫を避けるため毎日自宅から隣人の子供さんのマウンテンバイクを借りて工場に通い、なんとか1週間で工場を稼働させました。その様子を見ていた社長が、2月に、より統括的に動けるようにと私を専務に昇格させたのです。その後も引き続き走り回っていると、今度は6月に、社長が「私はもう大変だから交代してくれ」とトップを任されることになりました。

 移籍時には、まさか社長を務めることになるなどとは、夢にも思っていませんでした。ただ、結果的に社長になれたのは、いろいろ助けてもらえる人脈があったからこそだと感謝の気持ちしかありません。人脈といっても、一緒に飲み食いしたり、ゴルフをしたりして築けるようなものではありません。本当の人脈とは、相手の体の一部に入り込むぐらいに親しくならないと成立しないものです。そのためには、仕事を通じて相手から何かを教わり、自分自身が成長することによって、それを次の世代に伝える気持ちが必要です。

 貴重な学びを先達から得て、次代に受け継いでいくこと。この知恵の継承こそが、人脈の要諦だと私は思っています。

世の中をよくするために学んでください

 私は、受け継ぐ気持ちの大切さを、小学生時代に決して忘れることのできない光景を目にして心に焼きつけました。戦時中の疎開先での出来事です。敵機が襲ってきて、焼夷弾が落とされ、親子連れの父親の背中が燃えているにもかかわらず、父親は子どもをしっかりと抱きしめて守っていました。大切な相手を守るためなら、自分を犠牲にできる。これが親子の本当の姿だと思い知ったのです。

 私も父親を早くに亡くしたため、「父は私に何を伝えたかっただろうか」と、いつも考えていました。きっと、父は「世のため人のためになることをやれ」と伝えたかったはずです。だから、大学では精一杯学び、会社では全身全霊をかけて仕事に取り組み、震災復興のときも必死で力を振り絞ることができたのです。私の行動の原動力はすべて、「世の中を少しでもよくしたい」という思いに行き着きます。自分が楽しく生きていくため、自分の生活を豊かにするためではなく、誰かのために、世の中のために学び働く。それが私の人生です。

 幸い、今の世の中は随分と豊かになりました。けれども、それに甘んずることなく、みなさんは、今は豊かすぎるのだと自覚してください。その恵まれた環境のなかで学生生活を送るのだから、まずはしっかりと学ぶことです。授業料を出してくれている人の気持ちを考えてください。

 大学でしっかりと学び、社会に出れば、みんながきちんと暮らせるように仕事に励む。親への感謝、自分を支えてくれる先輩、そして友への感謝の気持ちを忘れず、ぜひ素晴らしい人生を歩んでください。

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