甲南人の軌跡Ⅰ/鳥井 信吾/あたり前だと思い込まない。 どんなことも「やってみなはれ」です。 | 卒業生の活躍紹介サイト | 甲南大学

あたり前だと思い込まない。
どんなことも「やってみなはれ」です。

鳥井 信吾

Torii Shingo

サントリーホールディングス株式会社
代表取締役副会長

1975年 理学部卒

趣味・特技

読書、散歩、 数寄屋建築の鑑賞

好きな⾔葉

鳥井信治郎の言葉 「やってみなはれ。やって みなわからしまへん。」 「天地報恩」

学⽣時代のクラブ・サークル

人を大切にする
友人と過ごした10 代

 私は甲南中学校・甲南高校で学び、エスカレーター式に甲南大学の理学部に進みました。実験熱心、勉強熱心とはとてもいえませんでしたが、応用物理の教科書を熟読したことがあります。その経験は、無駄にはなりませんでした。アメリカ南カリフォルニア大学大学院に留学したときに、微生物遺伝学を専攻しましたが、それがペーパーや本を読むことの土台になったからです。

 留学中の忘れられない思い出があります。20世紀最大の科学的発見のひとつといわれる有名なDNA二重らせん構造「ワトソン・クリックモデル」。この構造を発見し、ノーベル賞を受賞したワトソンとクリックのうち、クリックが大学に来て講演をすることを知りました。「これは行かなければ」と会場に駆けつけると、すでに人がいっぱいで、立つ場所さえありません。唯一会場の前方がポツンと空いていたので、その床に座り、講演が始まるのをわくわくしながら待っていました。司会者が開会宣言をし、クリックの功績や経歴を披露した後、「では、クリック教授を紹介しましょう」といいました。すると、後ろの人が私の肩を叩くのです。振り返ると、その人がにっこりと笑って「エクスキューズミー」といい、壇上に上がっていきました。彼こそクリックでした。ミーハー的ですが、ワトソン&クリックのクリックを見た印象は、今も鮮やかに蘇ります。

 10代の自分自身を振り返ると、人見知りなところがありました。それは今も治っていません。しかし、ふてくされたり、くさるようなことはありませんでした。おそらく、甲南の自由な校風のもと、のびのびと過ごせたからでしょう。私の周りの甲南生には、人を押しのけて自分だけが目立とうするような人はいませんでした。しかし、社会に出て組織に入ると、優秀な人ほど自分の売り込みに必死で、人を蹴落とすことに長けた人がたくさんいます。思うに、人を押しのける行動の裏には、ある種のコンプレックスがあるのではないでしょうか。何より、自分が目立つことだけに一所懸命では、「物ごとの本質」が見えるはずはありません。競争に執着しない人は、「世間知らず」かもしれませんが、だからこそ見えるものがあるのです。「人」の本質が見える、「モノ」の本質が見える。これは、甲南の教育の特長で、甲南の素晴らしさだと思います。私はのびやかな10代を甲南で過ごすことができて本当によかったと思っています。

三代目マスター・ブレンダーとして

 アメリカの大学院を卒業後、日本の大手商社に3年ほど勤務し、その後、サントリーに入社しました。サントリーという会社の歴史は、祖父・鳥井信治郞が1899年に大阪で創業したことに始まります。甲南学園が誕生する20年ほど前、鳥井が20歳のときでした。

 日本の洋酒文化を切り拓きたいという夢を持ち、本邦初のウイスキーづくりに挑戦しました。そうして世に送り出したのが、日本初の本格国産ウイスキーです。今でもサントリーの主力製品であるウイスキーは、世界のお客様に愛されています。

 ウイスキーづくりの重要な役割を担うのが、ブレンダーという専門家です。いろいろなタイプのウイスキーの原酒を組み合わせて製品をつくり、そして製品の品質を守ります。私は、ウイスキーの味わいを最終的に決定するマスター・ブレンダーを2003年から務めています。サントリーでは、代々創業者の血脈がその役目を果たしてきました。私で、三代目となります。

 ウイスキーの原酒は、製品になるまでが非常に長いのです。5年、10年、30年、あるいは50年、樽で寝かせます。現在の会社の収益は過去につくった製品が生み出したものであり、今つくっているウイスキーは未来の若い人の収益になります。ウイスキーの製造においては、将来に向けて貯蔵庫のなかで眠るウイスキー原酒の価値を上げていくことが重要です。そのために必要なのは、まず、ものづくりの力を上げていくこと。味や香り、美味といった品質を磨いていくことが欠かせません。もうひとつ大事なのは、ブランド力を磨いていくことです。ブランド力とは、信用や信頼です。「この会社の製品なら信用できる」「このブランドなら信頼できる」とお客様に思っていただけること。甲南大学もひとつのブランドであり、甲南大学で学ぶあなたという個人も、1つのブランドです。

 信用・信頼を上げるため、たゆまぬ努力を続けていく。会社にも個人にも問われることです。そのためには、あらゆることを「もう完成している」「あたり前だ」「やっても無駄だ」と思わないことが重要ではないか、と私は考えています。ウイスキーづくりでいえば、「きちんとものづくりができているのか」「本当に売れる仕組みができているのか」「そこから出てくるブランドは本物なのか」を常に恐れず疑ってかかる。あたり前だと見過ごしてしまうのではなく、何が本質かを常に考え、本質に向かって行動していくことが肝心だと思います。

 理学部出身の私は、会社では生産・研究部門の仕事をし、長くものづくりの世界にいました。しかし、ここに来てものづくりとマーケティングの間にある深い溝にブリッジを架けることが必要ではないかと考え始めています。なぜなら、ブランドとは、ものづくりとマーケティングの中間領域から生まれてくるものだと思うからです。サントリーだけではない、あらゆる企業の課題であるであろうこの本質を突き詰めていかなければ、と考えています。

 今から30年くらい前のことです。ソニーの創業者の1人である盛田昭夫氏を囲む勉強会で、氏が語った言葉が忘れられません。「理想と現実の間に橋をかけるのが企業経営者の仕事だ」。これはサントリーの創業者・鳥井信治郞が常に口にし、今も社内に脈々と受け継がれている精神「やってみはなれ」と同じ意味です。ものづくりとマーケティングの間に橋をかけるために、私も挑んでいきたいと思います。

学生時代の経験は絶対ムダにならない

 みなさんのなかには、自分がやっていることに自信がなかったり、今やっていることが将来何の役に立つんだろうと疑問に思っている人がいるかもしれません。しかし、学生時代に経験したこと、挑戦したことは絶対にムダにはなりません。勉強だけではない、失恋も失敗も、必ず将来何かに関連してきます。そして、関連してくるように自分で働きかけて、ムダでなかったと思えるような人生を送ってください。まさに、「やってみなはれ」です。「どうせ自分なんか」と、くさらないこと。これは絶対に大切です。

 私は、当社の若い社員と話すことがよくあります。若い人のエネルギーに触れられる、とても楽しい時間です。夢や理想を語るのは、企業経営者だけでなく、若い人の特権です。それを伝えてほしい。他の人にぜひ伝えてほしい。おそらく会社を起こしたときの20歳の鳥井信治郎は、そうしたエネルギーに溢れていたのではないかと思います。

 若いみなさんのこれからの人生においては、理不尽なことに直面することもあるでしょう。思わぬところで人に妨害されることもあるかもしれません。そんなときは、まず、しっかりと状況を見極め、先手を打ちましょう。ピンチこそチャンスです。あなたというブランド力を上げる好機になり得ます。

 あらゆる経験にムダはない。そう信じて、自信を持って甲南での生活を楽しく過ごしてください。

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