
ラテン語のdeportareを語源とするスポーツは、本来的に気晴らし・非日常的活動を意味していたといわれています。そこから転じて、今日では「スポーツは楽しみを伴う活動」という解釈が一般化されているのではないでしょうか。しかしながら、「スポーツを楽しく行う」と一言しても、競技スポーツをしていて「楽しい」と感じられる瞬間と、レクレーショナルスポーツをしていて「楽しい」と感じられる瞬間は異質です。前者の場合は、自分自身の技能目標と向き合いながらトレーニングを行い、その過程で感じられる技能上達や、目標とする競技成績を達成した時に「楽しさ」を感じるでしょう。一方の後者では、あるスポーツ種目を実施することで心地よい汗をかき、心身のリフレッシュを実現した時に「楽しさ」を感じるのではないでしょうか。このように、スポーツにおける「楽しさ」の性質は、活動目的(例えば、競技目的なのか、レクレーション目的なのか)によって大きく異なることがわかります。
それでは、ある一つの活動目的(例えば、競技スポーツ)において、「真面目に行なう場合」と「ふざけて行う場合」はどうでしょうか。競技スポーツに限らず、スポーツの場において「真面目に行なっている人」と「ふざけている人」を見かけることは珍しくありません。このような場面を詳細に観察してみると両者共に、とても「楽しそう」に見えることがあります。ここで取り上げた「楽しさ」は果たして、同質でしょうか。
そもそも、気晴らしや非日常的活動を意味するスポーツは、仕事のように何かの見返り(報酬)のために行う活動(日常的活動)から一線を画した活動です。すなわちこれは、「遊び」と同義的に考えることができます。これに関してオランダのホイジンガは「成人して生活に責任を負っている大人にとっては、遊びは、しなくても構わない一つの機能である。遊びはよけいなものである。」(ホイジンガ,2003,p.30)と述べています。ホイジンガはさらに「遊びは、われわれの意識のなかでは、真面目の反対に当たっている」、「実際には遊びが全く本気で行われることだってありうる」(ホイジンガ,2003,p.25)とも述べています。
遊びに対して真剣に、夢中になる楽しさは誰もが体験したことがあると思います。その活動によって見返りが得られないとしても、時間を忘れてしまうほど、その遊びに没入した時、「楽しさ」や「充実感」さらには「幸福感」をも感じるのではないでしょうか。上述したホイジンガの言をスポーツに援用すると、「スポーツは真剣に行う中に本当の楽しさがある」というニュアンスを感じ取れるのではないでしょうか。
このような見解をもとにして、スポーツにおける「楽しさ」を構造的に考えてみたのが図です。

まず、スポーツは本気で行うから楽しいのです。その対局には冗談(ふざけ)が存在します。これに加えて本気と類義になりますが、真剣というキーワードも忘れるわけにはいきません。真剣は、活動に対する誠実な取り組みの表れです。その対局にある軽率には、誠実さは感じられず、活動の充実に対する配慮は感じられません。
次に、本気で行うスポーツには規律が伴っています。集団の規律、ゲームのルール、さらにはルール化されていないモラルなど、規律の遵守度合いは本気度の表れとも考えられます。しかしながら、規律が守られない場合、その活動の場は無法地帯化され、各々の参加者が個人的な価値観に基づく軽率な行動を正当化するようになります。規律と類義的な言葉として責任が挙げられます。規律は責任によって保たれます。活動に参加する際にはその活動の充実に向けた責任を持つことが不可欠です。これとは反対に無責任な活動では、参加者は自分のことしか考えません。他者への配慮や活動の場の趣旨などを考えず、自由気ままに好きなことを楽しむことになります。
随分と寄り道をしてしまいました。「楽しい」という感情を持つことはどんな人にも共通であると思います。しかし、その「楽しい」という感情を引き起こす行動の内容には大きな幅があるのです。私は、スポーツを楽しむといった場合、「本当に望ましい楽しみ方」には「本気・真剣・規律・責任」というキーワードが隠れていると思います。
スポーツは真面目な遊びなのです。
文献 ホイジンガ著/高橋英夫訳(2003)ホモルーデンス,中公文庫.
(スポーツ・健康科学教育研究センター/全学共通教育センター 吉本 忠弘)