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2015/06/01
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【リレーエッセイ044】 「人生のリハーサル」としてのゼミ(寺尾 建)

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甲南大学経済学部では、大学での学びを究めるために、「ゼミⅠ」(2年次後期)「ゼミⅡ」(3年次)「ゼミⅢ」(4年次後期)というかたちで、ゼミが開講されています。

 

先週、この9月に開講される2015年度「ゼミⅠ」の履修希望者の第一次募集が行われました。
昨年度から、希望するゼミについて、3つまでエントリーできるようになりましたが、全体の応募状況は、今年度も昨年度とほぼ同様で、開講予定の19のゼミに対して、応募者総数は344名、計793のエントリーがありました。今後、各ゼミにおいて選考などが行われ、来月7月には、各学生が履修するゼミが確定する予定となっています。
──ということで、「ゼミの季節」でもあるので、今回はゼミについて、私が思うところを書きます。

 

昨今、日本の教育に「アクティブ・ラーニング」を導入することが求められています。しかし、全体に占めるその割合が適切であるのか否かという問題を別とすれば、少なくとも大学においては、文系学部であれば「ゼミ」という単位で、理系学部であれば「研究室」という単位で、ずっと以前から、「アクティブ・ラーニング」は行われています。

 

一部そのように誤解されているところもあるようなのですが、たんに「知識の活用」を行う授業にするだけでは、「アクティブ・ラーニング」にはなりません。なぜなら、「世界についての理解が深まり、自身の将来についての展望がひらかれることにつながるような学習」を実現することが、いま教育機関に求められていることであり、それを実現するものこそが「アクティブ・ラーニング」と呼ばれて、他と区別をされているからです。

 

結論を先に述べると、「研究」をベースとしてデザインされたゼミにおける学び──知識の「活用」だけではなく、知識の「創造」までもが課題となる──は、もっとも洗練されたかたちでの「アクティブ・ラーニング」です。

 

ゼミについては、その特長として「少人数」ということがよく指摘されます。しかし、「少人数」ということだけであれば、甲南大学では、たとえば、外国語の授業もそうですし、私たちの経済学部には、ゼミ以外にも、少人数の授業はあります。

 

ゼミがその他の授業と決定的に異なるのは、「専門性」と「継続性」という特長をもつことです。ここでいう「専門性」とは、ゼミが「研究活動」をベースとしてデザインされているということです。そして、「継続性」とは、子どもが終わり、大人が始まる時期に──甲南大学経済学部では2年次の後期から卒業までの2年半にわたって──継続してゼミが開講されるということです。

 

ゼミの授業内容が「研究活動」をベースとしてデザインされているというのは、ゼミにおける学びが、「知識や経験を新たな問題・課題と関連づけ、さまざまな情報やアイデア、議論を批判的に検討して自らの考えをまとめ、まとめた自らの考えを他人が検証できるかたちで提示する」という「調査・研究」活動を軸に展開されるということです。それは、典型的には、「調べる(情報の探索・収集をする)」「まとめる(調べた結果を整理・分類する)」「検討する(分析し、主張を仮説や政策のかたちにする)」「発表する(成果をレポートや論文のかたちで発表したり、アカデミック・プレゼンテーションを行ったりする)」という一連の知的な活動が繰り返されるというスタイルをとります(したがって、ゼミにおいては、成績評価は行われますが、通常それは、「試験」によってなされることはありません。ちなみに、学校教育において、「試験」がなくても知的能力が向上しうるという事実は、もっと注目されてよいと思います)。

 

「研究」とは、それまでに他の人が行った研究──それは、過去からの「贈り物」ということになりますが──を必ずふまえてなされる活動ですので、その意味で、「他者との協働作業」です。また、調査から成果発表に至る過程においては、研究成果の質を高めるために、他の人との「討議」が不可欠となります。討議はひとりでするものではありませんので、それは、文字通りの「他者との協働作業」です。また、討議の過程では、他人の意見や考えに触れることで、過去の自分がしていた考え方とは別の考え方をするようになる──それは、ひとつの「発見」でもあります──ということがしばしばあります。このとき、「過去の自分」のことを他人だと考えるならば、それもまた、「他者との協働作業」です。

 

つまり、「専門性」とは、その言葉が多くの人々に想起させるであろう “個別的なもの“ “別々に分かれたもの“ というイメージとはまったく逆に、「協働性」のことでもあるのです。そして、ゼミにおけるこの「協働性」は、ゼミのもうひとつの特長である「継続性」と密接に関連しています。

 

ゼミの「継続性」とは、一言でいえば、ゼミが単発の活動ではないということです。単発の活動ではありませんので、「(自分でもなぜだかわからないけど)できちゃった」で切り抜けることができません。また、単発の活動ではないので、自分にとって有利な出来事だけが起きるというようなことはありません。このようなことから、ゼミにおいては、「(自分でもなぜだかわからないけど)できちゃった」ではなく、再現性のある「(自分がやろうと思って)できた」が求められることになります。そのとき、「この前」「この後」を考えることが、常に求められることになります。ゼミでは、「この前」を常に振りかえる必要があり、また、今やっていることが「この後」どうなるかを常に想定しなければならないのです。いいかえると、「いまの自分」だけではなく、「これまでの自分」と「これからの自分」を常に考えなければならないのが、ゼミなのです。この意味で、ゼミには、「キャリア教育」としての側面もあるといえます。

 

学生にとって、ゼミは単独で行うものではありませんので、自分の思いどおりにはなりません。いってみれば、ゼミでは、「よいときもあれば、わるいときもある」ということになります。この意味で、学生がゼミで経験することは、少し大げさにいえば、人生で経験することに似たようなところがあります。

 

上で述べたように、ゼミには人生と似ているところがあるのは事実です。しかし、だからといって、ゼミにおいて形成される人間関係が、家族や友人、あるいは恋人などと似ているかというと、それは違います(ちなみに、ゼミでの出会いがきっかけで交際し、卒業後に結婚するに至るということはありますし、ゼミで一生の友人ができるということは、それよりもはるかに多くあります。しかし、私の観察するかぎり、それらの確率が、他の集団と比べて有意に大きいというようなことはなさそうです)。かといって、ゼミでの人間関係が、たとえば、同じ電車の同じ車両にたまたま乗り合わせた人どうしみたいなものなのかというと、それも違います。私の見るところ、世の中に存在する人間関係で、ゼミでの人間関係にもっとも近いのは、「同僚」です。「各人の間の心理的な距離は等しいわけではない。しかし、力を合わせることが常に求められる」というのが、ゼミだからです。最近はあまり聞かなくなったように思う言葉を用いると、人間関係において、ゼミが与えてくれるのは、「学友」です。

 

ゼミにおいて学生たち一人ひとりが過ごす2年半を見守るなかで私がいつも目の当たりにしてきたことは、2年半の間にゼミは「グループ」から「チーム」へと進化し、そのようなゼミでの経験──「専門性」と「継続性」──を通じて、一人ひとりの若者は人間として大きく成長し、「一人前」になっていくということです。

 

“一人ひとり” が自立した “ひとり” となるために人生のリハーサルをする場所──それが、ゼミなのです。

文責:寺尾 建(経済学部教授)

 

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